八国ノ天
「お客さん、面白いこと訊きますね。最近でなく一〇〇年ですかい? いやあ、あとは今日の祭りぐらいなもんです。そうそう、逸話になるかどうか、わかりませんがね。今日行われる『雛おくり』で流す雛人形に結ばれている赤い紐のことはご存知で?」
「いや、知らないな。そもそも雛おくり自体、見るのが初めてだからな。そう言えば雛おくりも一〇〇年ほど前から始まったらしいな」
「よくご存知で。そうなんです。これも私の勘なんですがね、この雛おくりという祭りは、他の地で行われているものと違って、罪人と関係あるのではないかと。根拠は無いんですがね、そのさっきも言った赤い紐が何かを意味していると思うんです」
「赤い紐? この人形には付いていないようだが。赤い紐を一体どうするんだ?」
「赤い紐をこう右手首に結ぶんです。そして川に流すんですが正直な話、これが不気味なんです。まるで手首から血を流しているようで……」
「血……」
「ああ、お食事中に申し訳ありません」
「いや、構わない。続けてくれ」
「はい。一般には、それは血でなく穢れらしいんですが、わざわざ、どうして手首に結ぶのかという疑問が残るんですわ。だから、この地に伝わる雛おくりというやつは、罪人たちの間で行なわれていた儀式か風習の名残から来ているんじゃないかと思うんです」
「……。ふむ……ご主人、飯屋より学者の方が似合ってるかもな。なかなか面白い話が聞けた。酒も飯もうまいしな」
「ありがとうございます」
官兵衛は人形を主人に返すと、店主は満足した顔つきで軽く会釈し離れて行った。
「なかなか、興味深い話だったわね」
「ああ。半分、空振りに終わるかと思ったが、雛おくりに罪人、赤い紐、一〇〇年前の事件か……」
櫛は官兵衛のお猪口に酒を注いでいた。
「そろそろ木霊に話してもいいんじゃない? 私たちの旅の目的の一つ」
「そうだな。彩加と俺が話していた時もなぜ、各地の伝説伝承を調べているのか、気になっていたようだったからな」
「ああ、それ、かなり気にしてる感じだったよ。私たちも言うの我慢してたんだから。ね、十夜」
「そうね、でもまずは『実例』を示さないと木霊も納得しないと思うわ。木霊はこういった伝説とか信仰というものを重んじる子だから、尚更ね」
「確かに十夜の言うとおりだ」
十夜は箸を置いて、代わりに熱い緑茶の入った湯呑みを持ち口へと運んでいた。
十真も最後の一口を飲んで、足元に置いていた弓と矢筒を手に取る。十夜も盾を手にしていた。
「そろそろ迎えに行く時間ね」櫛は言った。
「またいつ、アトゥイのような連中に襲われるかわからないからな。頼んだぞ」
「うん、帰ってきたらみんなで柚餅子食べるから、お願いね」
二人は櫛と官兵衛に手を振ると、まだ陽射しの明るい外へと出て行った。
「櫛……」
官兵衛はお猪口から櫛へ双眸を向けた。
「なに? 難しい顔して」
「さっきの話、どれも妙にしっくりと来るな……」
「実際にありえそうってことかしら?」
「そうはあって欲しくないが……」
5
木霊の前にナオとヨミが立っていた。
手に紙で作れらた雛人形を持ち、すぐそばで、澄みきった水が小さい音を立てて浅瀬を流れている。
木霊はナオの目を見ていた。外套に覆われた木霊の顔は、桜色の唇と褐色の顎だけしか見えない。
「ナオとヨミの村はどこにあるのですか?」
「……ごめん。それだけは、言えない」
「いえ。無理に聞こうと思ったわけでは無いので、気にしないでください」
「うん、あんだけ話しといて、本当にごめん」
ナオもヨミも申し訳なさそうにしていた。
だが、木霊が瞬きをした次の瞬間、二人の顔つきが変わっていた。
「ど……」
木霊は、どうしたの、と尋ねようとした。が、声が出なかった。二人とも目を大きく見開いていた。何か叫んでいる。何を言っているのか全く聞こえない。何が起きた? 刹那――後頭部が熱くなったかと思うと、頭の中に激痛が走る。直後、意識が遠のき視界が闇に包まれた。次に木霊が目を開けたとき、目の前に地面が壁となって広がっていた。左頬に砂利の感触。地面が波のように揺れている。太い二本脚の前で暴れる細い脚。横に目を動かした。背後の大きな黒い影にナオは抱きつかれていたのが見えた。目眩がまた襲う。次に目を開けたとき、ナオにしがみつくヨミの姿が映っていた。影は三つあった。意識が更に遠のきそうだ。次に目を開けたとき、ぼやけた視界の中心に三つの影が川上の方へ走り去って行くのが見えた。意識が飛んでいきそうだ。まぶたが重い。全てが暗闇に包まれた時、木霊の思考は遮断された――。
――ま!
暗闇の中、どこからともなく、何かが聞こてくる。
――こ――だま!
それが声であるとわかると、思考が急速にまわり出した。
「木霊! しっかり!」
目の前に十夜と十真、二人の顔があった。二人の背後で、遠巻きに覗く人の姿も見える。
十夜と十真は木霊を抱き上げ、地べたに座らせた。
「私は、いったい……」
「気を失っていたんだよ。何があったの?」
「わかりません。突然、気が遠くなって……っ! そういえば、二人は?」
「私たちがあなたを見つけた時にはもう、二人はいなかった。代わりにこれが落ちていたわ」
「これは、ナオとヨミの雛人形! くっ……」
後頭部から吹き出すような激痛が走り、手でそこを押さえる。
「武器はある――」十夜は周りにいる人間の顔を確認した。「顔も見られていないようね。一体、何があったの? よく思い出して、木霊」
ふらふらするも、木霊は記憶をたどる。
「影……三つの大きな影……」
「影、それって人なんじゃない?」
十真が心配そうに覗き込む。
「顔はよく見えませんでしたが、人間の男性だったと思います。彼らはナオとヨミを抱きかかえて上流へと向かった……」
「彼らの行き先はわかる?」
「いえ、ただ……ナオは言っていました」
「何を?」
「二人はある村から逃げて、ここに来たって。その村では一〇年に一度、『雛おくり』と呼ばれる生贄を捧げる儀式が行なわれ、ヨミはその生贄である『雛巫女』に選ばれていたと。そして、今日がその日だとも」
「十夜、これって……」
「朧」
「おぼろ……?」木霊は呟くように繰り返した。
「十真、さっきのお店であの主人が描いた地図を覚えてる?」
「まあ、何となくだけど、あの場所は一つ山を越えたあの辺りだと思うよ」
「そうね、私もあの辺りだと思う。さ、木霊、行くわよ。走れる?」
十夜は、座っている木霊に手を差し伸べ、木霊は立ち上がった。
「彼らがどこに行ったのか、わかるのですか?」
「いえ、でも微かな手がかりはあるから。それに、この里に居てもこれ以上は何もわからないわ。今は行動あるのみね」
木霊は頷いた。十真と十夜は体を翻し、翼をたたむと勢いよく駆け出す。木霊も右腕に長巻を握りしめ、左手に握っていた二体の雛人形を懐にしまい込むと、二人の後を追った。
「まずはこの山道に入るようね」
おとなが二人並んで通れるほどの道だった。
十真は山の入り口で腰を落とし、草をかき分けていた。
「十夜、この足跡はまだ新しいよ。あきらかに走ってできたものだね」