八国ノ天
木沙羅は気付いた。それは父でなく王の声だった。これが何かはわからないが、王は他の誰でもなく自分にこれを託したのだと――。
ヒムカ国は政略結婚で狗奴国と同盟を結び、これから雛国と戦争をする。国民がもっと幸せになるために、祖国のために戦って……結果、二度と父とは会えなくなるかもしれない。今は同盟関係であっても、いつ敵同士になるかもわからない。
今はそういう時代であり、この状況になって初めて木沙羅は自分が王族であることを実感していた。
木沙羅は王の目をしっかりと見た。
「姫は母に似て賢い。よいか、それを持っている限り、姫は安全だ」
「……はい」
「戦が終わったら、姫のところにお茶でも飲みに行くかの。次に会うのが楽しみだ」
――次……。一瞬、不安が頭をよぎる。木沙羅は必死に笑顔を作り、月森を見上げた。笑っている父親の背後に見える白く淡い月が、木沙羅の今の心境を表しているようだった。
2
およそ二ヶ月後。
雛国軍の抵抗は近隣諸国や部族の支援もあって予想以上に激しく、戦闘は雛国全土に広がっていた。
両軍ともに兵力の損害は大きかったが、狗奴国とヒムカ国の連合軍は徐々に雛国軍を追い詰めていた。
月森は数名の兵士とともに、月の社の中にいた。
そこは各地に点在する遺跡でよく見る、泥まみれで古びた箱のようなものが並んでいた。ただ他の遺跡と違い、ここにあるものはどれも新しく、光を発しながら唸り声を上げている。
「月森、気が触れたか! 光明ノ書はわれら人の手に負えるものではないぞ」
「黙れテナイ。カムイなんぞおらぬではないか! お前たち守人の末裔の言葉は聞き飽きたわ」
月森は倒れている雛国の王テナイに向かって言葉を吐き捨て、透明の箱へと近づいて行く。
テナイは身動きできないほどに、全身に傷を深く負っていた。今も腰と両脚の大腿部から血が、床へと血溜まりを広げている。
「おぉ、これが光明ノ書か。何とも不思議な……」
箱の中で、古い厚手の本のようなものが宙に浮いていた。月森の手の中にある四つの鍵が強く光り輝き始めると、箱の周りに四つのくぼみが現れた。
「やめるのだ! 貴様のやろうとしている事は、世を戦乱へと招くことになるのだぞ」テナイの声も空しく、月森は鍵をくぼみにあてはめていく。
すべての鍵をはめたその時――、
光と音が消え本殿全体が闇に包まれた。
「どうしたというのだ」月森を護衛していた兵士が、刀を構えながら周囲を見回す。
《エイチティ・イチ・ゼロ・ニ・サン・エイエス起動確認》
突然、なめらかな女性の声が屋内に響き渡った。同時に、天井が青空のように明るく輝き出し、壁一面に文字や人体の形をした絵が次々と映しだされていく。光輝く文字――月森たちにとってこの光景は、神の仕業としか説明しようがないほど衝撃的で、なかば強制的に夢を見せられているようだった。
「なんだこれは? 誰かいるのか? 返事をしろ!」月森は叫んだ。
《エイチティ・イチ・ゼロ・ニ・サン・エイエスよりデータ転送……脳を再構築中……大気組成確認中……異常なし……警告、起動予定日時二四××年×月×日×時×分×秒より、三四○五年と一三三日経過しています……プロセス変更、継続します……言語解析プロセスを実行します……脳を再構成中……体細胞組成開始……バックアッププロセス開始……最終プロセス開始……》
室内に響き渡る声の中、複数の足音が混ざる。
「月森殿、これは……どうしたことだ?」ヒルコだった。息子の稲馬と数人の兵士を引き連れていた。
「いや、私にも一体何が起きているのかわからん」
《最終プロセス完了……エイチティ・イチ・ゼロ・ニ・サン・エイエス、シールド解除します》
声が止むと同時に、光明ノ書が置かれている台座のそばで、黒い棺のようなものが床下から音も無く現れる。
月森たちが茫然と見つめている中、その箱の上面が音も無くすうっと開くと、箱の中から一人の青年が上半身を起こし床に降り立った。
大人びた顔立ちに、黒い服の上からでもわかるほど胸板が厚く、背の高い勇ましいその青年の姿は、文献に出てくるカムイそのものだった。
「おぉ、月のカムイ様」
「お前は……」
目覚めたばかりの青年は、目の前で展開されている状況に少し混乱していた。身体の感覚もまだ眠りから覚めていないようだった。
だが、はっきりしていることもあった。たとえば、今は西暦二三××年でもなく、目覚める予定であった二四××年でもなく、五八××年であること。「お前は誰だ!」月森が叫んだ。
青年がこの施設で眠りにつく時も戦争のまっ只中だったが、今も似たような状況にいること。このことに違和感はなかったし、動揺を感じることも無かった。
そんなことよりも違和感を覚えたのは、目の前にいる人間の格好だ。皆、歴史の本で見たような格好をしていた。室町時代だろうか、いや平安時代? いや、どうやらそうではない。様々な時代のものが混ざっているようだった。とにかく遊園地のアトラクションか、あるいは、はるか昔の時代に投げだされた気分だった。
(ここは未来ではないのか? 実はまだデバイスの中で夢を見ている?)
青年はもう一度テナイを見た。テナイの背中には黒い血が広がっていた。床の血だまりが、目の前で起きている事が現実だと訴えてくる。
「お前は誰だと聞いている! カムイなのか?」
月森の声に青年は我に返った。と同時に、危機感が頭を支配していく――これは現実だ。大きく息を吸い込む。
「キアラ。俺の名前は、千曲キアラだ」
感覚が戻ってくる――変異細胞――眠りにつく前、研究者である両親に組み込まれた世界を狂わせた技術。
「彼をやったのは、お前か?」
「そうだ。貴様がカムイなら話は早い。我らには月の社と光明ノ書が必要なのだ。たとえ一国を滅ぼしてでもな」
その言葉にキアラは嫌悪感を覚えた。
「なぜ、そこまでして書を求める?」
「繁栄のためだ。人智を超えた力……その力があれば、他国からの侵略、妖怪どもとの争い、疫病、飢饉など何百いや何千年とずっと続いてきた苦しみから解放されるのだ」
(妖怪? もしかして、人工種のことか?)
「光明ノ書は何も、もたらさない。この施設も単なる軍事目的で作られた研究施設だ。それに俺は人間だ」
「何を言っておるのだ? カムイよ。今、目の前で起きていることが神のしわざでなく何と説明する?」
「あんたこそ、何を言ってるんだ。これは科学の力で……」
キアラは言葉を止めた。この状況で真実を語っても、彼らは何も理解できないだろうし、信じもしないだろう。
未知の自然現象に対して恐れを抱いていた時代、人は自ら納得あるいは説明するために神や妖精、昔話や伝説といったものを作りだし、それらを信じてきた。
今、目の前にいる人間もそうなのだ。彼らにとって、ここは研究施設でなく伝説で彩られた奇跡の場所であり、地球上のあらゆる情報と脳を分子化し保存しておくための光明ノ書を人々に幸福と繁栄、奇跡をもたらす神聖な物と信じ込んでいるのだ――だが、どうする?
「カムイよ……」月森は言った。「我らに力を貸して欲しい」