八国ノ天
官兵衛の茶碗を受け取り、十夜は席を外す。
「ちょっと十真。あの二人、いつもあんななの? 食べ始めてからまだ、そんなに時間経っていないのに、すでに三杯目なんだけど」
ナオが十真に訊く。ヨミも箸を止めて十真に注目していた。
「はは……そうだね。いつもあんな感じ……」
「姉妹なのに、違うね〜。でも、あんなに食べて空を飛べなくなるとか無いの?」
「うわ、お姉ちゃん、ちょっと失礼だよ。そんなこと聞いちゃ……」
「飛ぶ? ああ、ナオは知らないんだね。私たち天狗は翼を持ってはいるけど、鳥のように飛ぶことはできないんだよ」
「へ? そうなの? ああ、でもそう言われてみれば、高いところをこう、ぴょんぴょんと、飛び跳ねて行くのは見たことあるけど、鳥みたいに大空を飛んでいるのは見たことないな。ヨミはある?」
「ううん、私もないよ」
「だいたい、崖のような高いところから滑空するか、壁とかを蹴ってその反動で飛び跳ねる感じだね。そんなことしないけど、屋根とか二階三階に跳び移るのは、簡単にできるよ」
「ああ、それは楽でいいね。玄関いらないな」
「玄関って……そこなんだ……」
十真は返す言葉に困っていた。
朝食を終え、木霊は一人、笛を吹いていた。
すると、ナオとヨミが林の方から歩いてきて、音を立てないように木霊の隣にそっと座る。
演奏が終わると、ナオが興味津々に顔を向け、
「木霊って笛、吹けるんだ。すごく上手だね」
木霊は、はい、と頷いた。遠くから滝の音が聞こえてくる。
「木霊ってあんまり喋らないよね。顔も見せてくれないし」
「ごめんなさい……」
「みんなに聞いても、木霊のこと教えてくれないんだよねー」
「……」
「お姉ちゃん――」
ヨミがナオの裾を引っ張る。
「ちょっとだけだから、いいでしょ。ね」
「もお」
「あの……私のことで何かあるのですか?」
「えっと……なんというかな。その、ほら、木霊って。他の人と雰囲気が違うよね。肌の色とか。その金色の髪とか。もしかして、木霊ってどこかの国のお姫様か、お嬢様なの?」
「……いえ。でも、どうして?」
「食べ方がすごく綺麗でした。歩き方とか今も座っている姿勢とか綺麗だなって」ヨミは瞳を潤わせていた。「なんか憧れてしまいます」
「だから、木霊はきっとどこかのお姫様で、隠密で旅しているのかなって。昨日だって、あたしらにお賽銭、上げようとしてたけど、戸惑ってたしね」
「あ……」
確かに昨日、十夜から賽銭を渡され、どうすれば良いか戸惑っていた。
それもそのはず。長年、城で暮らしてきた木霊にとって、庶民の暮らしはほとんど皆無と言えた。
「なるほど、私はそういう風に見られているのですね」
「あ! 今、笑ったでしょ?」
「笑ってませんよ」
嬉しかった。木霊は感情を小さくして心の片隅で微笑んでいた。
「うそ! 顔に出さなかったけど、笑ってた!」
「うん。木霊さん、今、少しだけ笑いました」
「では、そういうことにしておきましょう。でも私がお姫様だったら、修行はしていないでしょうね」
「あ、そうか。でも、戦うお姫様もいいな。ちょっと憧れるなー」
「私も憧れちゃいます」
初めて見せた木霊の小さな笑顔につられ、ナオとヨミも笑っていた。
「おっと、ヨミ。そろそろ宿に戻らないと……」
「そうだね、お姉ちゃん」
「邪魔してごめんね。木霊。また、明日……というか、今晩も宿で会うかもしれないけど、またね」
「はい」
「あ、そうそう。木霊って淡々と話すけど、笛の音は違うよね。そっちが本当の声なんじゃない?」
「お姉ちゃん、また少し失礼だよ。でも、本当に笛は素敵でした。今度、私にも教えてくださいね」
そう言って、お互い手を振って別れると、木霊はまた一人になる。
木霊は膝の上で握り締めていた笛を眺めていた。
言葉にしなくとも、感情を表現する方法はある。思いっきり笑うことはできないが、この笛を通して喜ぶことはできる。そう考えると、少しだけ気持ちが楽になった。
空を仰ぐようにして顔を上げた。
きっと、これからも笑うことはできる。
感情は消えない。
木霊は横笛を口にあてた。
森の中をトンボが羽を広げ、滝の方へと飛んでいく。
滝のそばを流れる小川に沿って歩きながら、十夜と十真は移りゆく秋の気配を楽しんでいた。
水しぶきが舞い、木の葉がこすれ合う音に混じって、どこからともなく、笛の音が聞こえてくる。
官兵衛は目を閉じ、木にもたれ耳を澄ませていた。
だが、ふと片目を開け、
「どうした? 楽しそうな顔をして――」
少し離れた苔の生えた石の上に腰を掛け、足を伸ばして体を休めていた櫛が、髪をかきわけながら一人微笑んでいた。
そのまま、空を仰ぐように顔を上げると、
「木霊、笑っているわね――」
「……ああ」
官兵衛は頷くように目を閉じると、思わず櫛と同じ顔をしてしまう。
「笑っているな」
3
五日が経とうとしていた。
ナオとヨミの二人の姉妹は毎朝、木霊たちの鍛錬の場である羽八馬渓に顔を出していた。
歳が近いせいもあるかもしれないが、ナオとヨミはよく木霊に話しかけ、はじめは戸惑っていた木霊も、今ではもう打ち解けあっているようだった。
いつものように朝食を終え、いつもの場所で木霊は横笛を奏でていた。隣にナオとヨミが座っていた。
最後の音が風に乗って空へ吸い込まれていくと、木霊は笛から唇をはなした。
そして、二人の方へ静かに顔を向けて、
「今日はお祭りがあるのですよね?」
「はい、今日ですね」
いつもはすぐに答えてくる姉に代わって、返事をしたのはヨミだった。どことなく、二人とも元気が無い。
「私の国では流し雛のような行事は無かったから、早く見てみたいですね」
「そう……」
「わわ、それなら今日、木霊さん一緒に見ましょう。実は今日、木霊さんにこれを渡そうと思って来たんですよ」
素っ気なく答えるナオに、ヨミがあわてふためきながら、懐から何かを取り出してみせる。
「これは……雛人形……?」
ヨミから手渡されたのは、手のひらに収まるくらいの紙で作られた雛人形だった。少し目が粗いが、一般的に紙は高価なものだ。
不思議なことに、人形の右手首には赤い紐が結ばれていた。
「はい。お姉ちゃんと私で作りました。お姉ちゃんと私のもあるから、一緒に流しましょう」
「ありがとうございます」
木霊は丁寧にお礼を述べた。
「ヨミ、あたしは行かないよ。木霊と二人で行ってきなよ」
「お姉ちゃん! そんな、約束したじゃない。行こうよ」
「ごめん、だけどやっぱり行けない。それに戻る時間だ」
「ああ……、木霊さん、夕方に宿屋の橋の前で待ち合せましょう。お姉ちゃんも必ず連れてきますので」
「あたしは行かない」
「もう、そんなこと言ってないで行こうよ」
ヨミは木霊に軽くおじぎすると、先へと歩くナオの方へ小走りで去っていった。
今日は祭りがあるということで、陽が西へ傾き始めた頃には、木霊たちは狐狸の里へ戻っていた。
約束の場所にナオとヨミはいた。
何時にもまして、通りは人と活気に溢れていた。
通りに沿って立ち並ぶ店はどこも盛況のようで人の出入りが止まることが無い。