八国ノ天
「ほら、見てみるんだ」
「あは……はは! 飛んでるよ……綺麗――」
それは一瞬だったが、ナオには全てが止まっているように見えた。
夕陽に反射して金の鱗のように輝く川のせせらぎ。馬の思わぬ登場に驚いたのか、水しぶきを立て川面で跳ねる鮎。川岸に咲く白い彼岸花。木で作られた素朴な橋。橋から道が曲がりくねったように伸び、田畑が金色のさざ波を立てて広がっていた。
馬の四肢が着地すると同時に、ナオの体も一旦、深く沈みまた浮き上がる。
「はは! あははは!」
ナオは大声で笑っていた。
「飛んだ気分はどうだった?」
「はは。最高だよ! 走って飛んだんだ! 一瞬だったけど……でも、すごく美しかった――」
「そいつは良かったな、ナオ。じゃあ、そろそろ引き返すとするか。帰りももちろん、走るぞ!」
「うん!」
街に戻ると、小さな子どもの手を引く親子連れの姿が映っていた。
他にも、自分と同じ年頃の男の子と女の子が仲良く歩いている。
今さらながら、ナオは気付く。ずっと片手で官兵衛がナオを支えていたことを。ナオの腰に官兵衛の腕があった。少し恥ずかしかった。それにしても、この男はなんて強引なんだろう――何を考えているんだ――いや、考えるのはよそう。そう自分に言い聞かせてみる。だがこうなると、余計に意識してしまう。背中越しに伝わってくる心臓の鼓動――気になる――? ちらりと、横目で後ろを覗こうとした。だけど、何も映らない。さっきから風が顔に当たっているけど、涼しくならない。
帰りの景色はよく憶えていなかった。
馬小屋に着くと、ナオは官兵衛に打き抱えられながら、馬から降ろされ、地面に足を着けた。が、少しよろける。
「お? 大丈夫かナオ。少しだけだったが、走れて良かったな」
「うん! とにかく、すごく楽しかった。こんな気持ちを抱いたのも初めてだ」
「こんな気持ち? どんな気持ちだそれは?」
「えっと、それはその……何でもいいだろ! とにかく凄かったんだよ!」
「わかったわかった。それじゃ、戻るぞ」
その夜――、
宿屋とは別の場所にある離れで、ナオは湿った固い布団の上にヨミを寝かせていた。
この時期、暖かい昼間と違って二人に与えらた部屋は、冷たいすきま風があらゆる所から入り込んでくる。
ナオは薄手の掛け布団を、体を丸めているヨミに被せた。
小さな窓から差し込む月明かりが、ヨミの薄汚れた顔を照らしている。
「お姉ちゃん、何か楽しいことでもあったの?」
「うん? なあに突然に。どうしたの?」
「だって、いつもと違ってニコニコしてるよ」
「そう? でも、そうなんだろうな」
「何があったの? 教えてよ」
「うん。今日、実はね。走ったんだよ」
「え? お姉ちゃん、走ったの?」
「そう。走るのってあんなに楽しいことだったんだね。走ることできたら、ヨミと一緒にもっと、もっ……と遠く、に……行ける、のに……」
ナオの声が風の音に溶け込んでいく。
「……お姉ちゃん。お姉ちゃん?」
ナオは寝息を立てていた。
「疲れて寝ちゃったんだね。私が大きくなったら、私がお姉ちゃんをどこにでも連れて行ってあげる。誰も……あの人たちが追ってくることができない遠くへ……」
そう言って、ヨミは掛け布団の端を掴むと、そのまま上に持ち上げ、ナオに体をぴたっとくっつけ抱きつく。
そして――、
静かにヨミも目を閉じた。
その晩は朧月だった。窓から差し込む柔らかな月明かりが、体を丸め寄せ合いながら眠っている二人をいつまでも優しく包んでいた。
2
翌朝、木霊たち一行は狐狸の里から少し離れた場所――『羽八馬渓』へと向かっていた。
そこは木霊たちが鍛錬するための場所だった。
狐狸の里にいる間――すなわち木沙羅とキアラの居場所が掴めるまでの間は、早朝から夕刻まで羽八馬渓で鍛錬し、夜は宿に戻って休む計画だ。
今日はその初日だった。
鳥が囀り、滝壺に水が当たる音に混じり、鋼の音が響いてくる。
真っ直ぐに伸びた刃が、木霊の横腹を斬り裂く。木霊は避けきれず、長巻で刃を受ける。それを受けている間に今度は斜め上から円形の盾が木霊の顔面めがけ飛んできた。木霊は上半身だけで仰け反って躱すもバランスを崩し、尻餅をつき一瞬、視界が暗くなる。目を瞑ってしまったのだ。瞬時に目を開けるも、間に合わなかった。銀色に輝く刃の先端が木霊の眼前で凛とした輝きを放っていた。
「武器で受けない! 最小限の動きで避けることに集中しなさい。木霊」
木霊の鼻先に触れるか触れないかの位置で止まっていた剣の切っ先が引っ込むと、目の前に片手剣と円形の盾を持った十夜の姿があった。
はるか上空で生い茂っている木々の葉から陽の光が差し込み、木漏れ日となって滝の前に立っている十夜を照らしていた。白い翼を広げたその姿は鋼の騎士というよりも――、
「十夜さんって、まるで天女みたい。すてき」
小さな手を合わせながら、短い黒髪の少女はため息をついていた。
「うん、そうだね。櫛さんも綺麗だけど、十夜も十真も綺麗だな〜」
「そうだよね、お姉ちゃん」
「おはよう。二人とも。早速、今日もお仕事かしら?」
「あ! おはようございます。櫛さん」
「おはようございます」
そう挨拶したのは、ナオとヨミだった。
少し離れた場所で、櫛は朝食の準備をしていた。火を起こすための炉を作ったのはもちろん、官兵衛だ。
「あれ? 官兵衛はどこ行ったんですか?」
ナオが尋ねる。
「そういえば、十真さんもいませんね」
「二人ならほら。あの滝の向こうで鍛錬してるわよ」
「あ、本当だ。へー」
櫛も官兵衛の方を少しだけ見ていたが、二人に向き直ると、
「ところで、今日は一体、どうしたのかしら?」
「あ、そうだ、いっけない。言うのすっかり忘れてた!」
「もう、お姉ちゃんってば」
ナオはごまかすように笑うと、
「あのですね。櫛さんたち、今日からここで鍛錬されるんですよね。だから、あたしたち、食べ物が必要になるだろうなって、持ってきたんです」
そう言って、ナオとヨミはかごに入った芋や人参、椎茸や山菜を見せる。
「どれも美味しそうね。それじゃあ、全部、頂こうかしら」
「え! 本当に全部、ですか?」
「ええ、本当よ。はい」
櫛は当然の顔をして金銭を払う。
ナオとヨミの二人は目を丸くしていた。なぜなら、櫛が作っている朝食の分だけでも、おとな八人分は優にあったからだ。もしかして、昼の分も合わせて今、作っているのだろうか?
「あの? 櫛さんが今、作っているのってお昼の分もですか?」
「違うわよ。これは朝の分。お昼はあっち」
見れば、火に掛けているものと同じ大きさの円筒型をした鍋がもう一つあった。
固まっている二人の間に割って入ると、櫛は二人の顔を見比べながらにこやかに、
「ふふ。せっかく仲良しになったのだから、一緒に食べましょうね」
「うまいなー! こんなにたくさん食べたの。久しぶりだよ」
「うん、美味しいね」
朝食はナオとヨミも一緒だった。
木霊は二人から顔が見えない所に座って、黙々と食べていた。
木霊の隣で、十夜と官兵衛が並んで食べている。
「十夜。おかわりか? 俺のもついでに頼む」