八国ノ天
苦しみながらも、櫛の目は諦めていなかった。活路を見出そうとしていた。
(そうだ……私はぜったい生き抜くと、木沙羅さまを救うと、さっき誓った……)
佳世は全身に力を入れ、必死に抵抗した。
(このまま終わるなんて、イヤだ!)
その時だった――。
鈍い音と同時に、佳世を押さえていた男二人の腕の力が緩んだ。
佳世はその瞬間を逃さず、振りほどいて後ろを見た。男二人は床に倒れ気絶していた。
佳世は静かに一言、「官兵衛……」と言うと、前を向いて駆け出した。
その動きは速かった。両拳が青白い光に包まれていた。
佳世はバドに横から勢いよく飛び掛かった。
バドは佳世から身を守ろうと、櫛から手を離すが遅く、佳代と一緒に床に倒れる。
佳世は両手でバドの首を絞めていた。
「お前は! よくも……許さない!」青白い光が輝く。
「ぐぇ……何だ? この光は?」
バドは眼前の光に驚くも、自分の身に何も起きていない事を確認すると平常心を取り戻し、
「くくっ、ぬしに一つ面白いことを教えてやる。ぬしはもう、生き人形と同じよ」
「何を言い出す」
「人形だ。わからぬか? ぬしはもう、笑うことも怒ることも悲しむことも出来ぬ体になったのよ。そのような体でどうやって王女を救う? どのような顔して会うというのだ」
バドの歪んだ口が佳世を挑発する。
「うるさい! 私の心を覗くな! お前はぜったい許さない! 絶対にだ!」
「佳世! 怒りに身を任せては駄目!」
櫛が叫ぶよりも一足早く、佳世は怒声を上げ、バドの首を締めた。
しかし次の瞬間、怒りは苦しみに変わり――、
「ぐああっ!」
佳世は両手で頭を押さえていた。
苦しみから解放されたバドの表情がにやける。
「だから、言ったろう? ぬしの感情が高ぶったとき、それは苦痛に変わる。初めてそれを着けた時の痛みと同じだっただろう? ん?」
満足そうにそう言うと、馬乗りになっている佳世の身体を掴み、乱暴に投げ飛ばした。
佳世は受身も取ること無く、悶え苦しんでいた。
「誰がヤツを放せと言った?」バドは苛立った声で、男たちが立っていた方を見た。しかし、そこには見知らぬ男が立っているだけだった。
その男は、二メートルはある棍棒を手に持っていた。
男は静かに言った。
「俺だよ」
その男は走り出し、棍棒を片手で大きく振り上げる。
バドの口元が歪む。
「そんな速さで、わしに当てられると思っておるのか?」
「そうか、見失うなよ」
男は表情一つ変えなかった。
刹那――。
「何?」言葉は声にならず、バドは男でなく空を見ていた。
次の瞬間、バドは壁に叩きつけられ床にずり落ちた。口から血がごばっと溢れだす。遅れて激痛が襲う。
血まみれの口で「ぬしは……」と言いかけたとたん、
「じいさん、あんたはもうしゃべる必要はない。今ので肋骨がほとんどイカれちまってるしな。女、じっとしていろ。あんたも射程内に入ってるぞ」男は声色ひとつ変えず淡々と言った。
バドは苦悶の表情をしていた。
「これが、地……滅罪者……」
麗は声に出すのが精いっぱいだった。圧倒的な力の差を目の当たりにした彼女に、残っているのは恐怖。
この男の攻撃の速さはとても見切れるものではなかった。それ以上に恐ろしかったのは力だった。防御という行為そのものが無駄に思えた。
「櫛、佳世、立てるか?」
「官兵衛……私は大丈夫。それよりも佳世を」
佳世を抱き抱えながら櫛が答える。
官兵衛は頷くと、変わり果てた佳世の姿に躊躇することなく手を取った。
「佳世、よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
「私を見て……驚かないのですか?」
「ああ、佳世に変わりはないからな。まずは、ここから出るぞ」
佳世はバドを見た。先程ほどまで自分を苦しめていた人間とは思えないほど、憐れな姿だった。
そして佳世は向き直ると、こくりと頷いた。
櫛は光明ノ書をターミナルから取り出していた。
周りが騒々しくなってきていた。
官兵衛の後を追ってきたのかそれとも、騒ぎを聞きつけてきたのか村人や兵が集まっていた。
「櫛。佳世を連れて先に行っててくれ」
官兵衛は立ち止まり、
「そういえば、じいさん。気がつかないか?」
バドは苦しそうな顔をしながら、官兵衛を睨んだ。
「あんたの能力によって、ほとんどの村の人間が仮面をつけていたよな? だが今はどうだ? おかしくないか?」
バドは村人の顔を見渡した。誰一人として仮面をつけている者はいなかった。何が起きたのか、わからない表情で官兵衛を見た。
「わからないのか?」
バドには思い当たる節が見つからなかった。
「俺がお前たちのことを知らないとでも思っているのか? 制裁者バド。貴様はカムイ、天によって審判が下された。知っているよな? 審判者の能力」
「まさか、あの娘が? それでは、わしの能力は……」
バドは顔を真っ青にして佳世を見た。
「貴様はもはやカムイではない。ここにいる村人と同じ普通の人間だ。そして貴様は大罪を犯してきた。心を弄んだ結果、どのような報いが待っているか、貴様が一番わかっているだろう?」
「あ? おい、待ってくれ。わしは、どうなる? どうなるんだ?」
官兵衛は鳥居の方へと歩き始めた。
麗もまわりの兵たちも皆、彼らを止めようとする者は誰一人としていなかった。
官兵衛たちが立ち去った後、村人の目つきは変わっていた。その場にいた全員がバドを見ていた。
「ちょ、ちょっと待て。麗、何を見ている。こいつらを止めろ! お前たちも何をしている!」
バドは麗と兵士に向かってわめき散らすが、彼らは静観していた。村人がバドを囲んでいく。手に石や棒を持っていた。
「麗、助けてくれ! 立てないんだ」
「あなたはもう制裁者ではない。私にも彼らを止められないし、ここで争いを起こして兵を無駄に死なせるわけにはいきません」
「おい? 見捨てるのか、わしを?」
「バド……正直、私はあのような狂乱をもう見なくて済むかと思うと、ほっとしています」
「なん、だと?」
「あなたの悪趣味についていけないと言ったのです。勘違いしないでください。最後まで制裁者としての使命を果たそうとしたこと、アトゥイには伝えておきます」
「おい! 本当に見捨てるのか? ここの武器はどうする? おい? 頼む! 助けてくれ! お願いだ!」
麗は何も言わず、兵とともに立ち去って行った。
バドの前には、かつて仮面をつけていた罪人と奴隷しか残っていなかった。
床上の土砂を踏み鳴らしながら、じりじりと近づいてくる。
――目を閉じた瞬間、殺される。
今まで仮面の下に隠されていた殺意に満ちた憎しみと怒りが近づいてくるのを、ただバドは見ていることしかできなかった。
武器を握り締める音――。
バドは発狂した。
蝉の鳴き声はいつの間にか消えていた。
6
櫛と佳世は官兵衛の後ろを歩いていた。官兵衛が言うには、この道を真っすぐ行けば小さな船着き場があり、そこで十夜と十真が待っているとのことだった。
佳世の足取りが重くなる。
「佳世、どうしたの? 少し休む?」櫛は言った。
「いえ、そうではないんです」佳世は顔を伏せていた。