八国ノ天
天狗はあまりの痛みにもだえ、ひざまずいた。天狗の足には、くないが突き刺さっていた。
佳世は縄を拾うと肩に掛け、光明ノ書と鍵を左腕に抱えた。そして、余った右手で天狗の腰に差さっている刀を鞘から抜き取ると、納戸を飛びだした。
佳世の動きは鮮やかだった。
五人の若い兵たちは、まさかこんな少女が? と言いたげな顔で口をぽかんと開け、佳世の姿をただ目で追っていた。
佳世は剣先を兵たちに向けながら、後ずさりしていく。
「何をしている。早く捕まえなさい!」眉間に力を集めた天狗が檄を飛ばす。
その怒声に兵たちは、目を覚ましたように一斉に我に返ると、目の前の少女を捕らえようとするかの如く身構えた。
佳世は刀を兵たちに投げ捨てた。
兵たちがひるんだ瞬間、佳世は体を反転させ目的の場所へと走りだした。
途中、何度も転びそうになるが、それでも必死に走った。
廊下を駆け抜けた所で景色が突然、変わった。
佳世の眼前に屋根の無い空間が広がっていた。
――着いた!
兵たちは背後に迫っていた。
うなじに汗が流れる感触。心音が激しく佳世の頭の中で鳴り響き、深呼吸する暇も無い。
佳世は外に面している奥の手すりに駆け寄ると、縄を床に放り投げた。
前を見た。手すりから向こうは地平線が広がり、山が波のように連なっていた。
下を見た。城壁に沿って地面は、はるか遠くにあった。
ここで佳世は呼吸を整えた。首筋から胸元にかけて幾重もの汗が滴り落ちる。
「そこまでだ! 大人しくしろ!」
佳世は手すりを背にして振り向き、両腕で光明ノ書と袋を抱きかかた。
「これはカムイ様のものです。返せません!」
五人に囲まれていた。
「何を言っている。死にたいのか? 大人しくしろ!」
「お前、伊都と内通していたな!」
「伊都なんか知りません――」
「近づかないで……」手すりがぎしりと音を立てる。
――『今度は私が木沙羅さまを救う番』――
――『木沙羅を助けたら、迎えに行く。一緒にこの国を出ような』――
約束した。ここで死ぬわけにはいかない。
兵たちが一斉に飛び掛かった。
瞬間、ばきっと木の割れる音ともに佳世は空中に放りだされた。
「あ!」
佳世は自分の身に何が起きたのか理解できなかった――目の前にキアラの姿が映っていた。そして、キアラの背後には木沙羅の姿が――これは夢?
キアラが手を伸ばしてきた。
佳世も手を伸ばしキアラの手を掴む――。
何も掴んでいなかった。手の先にあるのは夜空。
どうして……。
どうして……やっと、会えたのに……。
私は……約束を……。
木沙羅さまを助けることができなかった……。
今、立っていた場所は、はるか上にあった。
佳世は目を閉じた。
風が体を突き抜け、涙が舞い散る。
風が止む。
痛みはまったく感じなかった。全身が何かに包まれている感じがした。
目を開けると空が見えた。目を閉じる前と同じ空だった。
するとどこからともなく、白銀に輝くオーロラが煌めきながら舞い降りてくる。
これが本で読んだ天の世界なのかなと思った。
「大丈夫?」
(この声は?)
「落ちて死ぬところだったよ。本当に大丈夫?」
彼女は茶色の瞳を大きく見開き、心配そうに佳世の顔を覗き込んでいた。白銀の髪が優しく佳世の顔を撫でる。
彼女は白い翼を羽ばたかせながら、地面へ舞い降りていた。
だが――、
「うっ!」彼女は目を見開いた。
突然、佳世の体がすうっと浮いたかと思うと、周りの景色が急速に夜空へと吸い込まれていった。
二人は地面に叩きつけられた。彼女は落下したのだ。
彼女は苦しそうな声を漏らしながらも佳世を抱き上げると、林の中へと走った。
3
林を抜けた所で、彼女は倒れそうになった。本当に倒れる前に、佳世は両腕に抱えていたものを放り出しながら彼女から飛び降り、彼女の身体を正面から受け止めた。彼女の上半身が佳世の小さな体にのしかかる。
「あ……」
見ると、彼女のふくらはぎから血が地面に滴り落ちていた。
佳世はすぐさま彼女を座らせると、傷口に唇をあて血を吸いだし、自分の裾を破いて傷口に巻いていく。
「あの、ありがとう」「ありがとうございます」二人は顔を見合わせた。
佳世は照れくさそうに俯いて、巻き続けた。
彼女はふっと笑みを浮かべ、「矢がかすったみたい。でも大丈夫だよ」と言った。「すぐに追手がくるし、早く立ち去ろう」
佳世が巻き終えるのを見届けると、彼女は翼をばさっと広げ立ち上がった。
と、その時。
彼女の背後で声がした。佳世はその声と姿に覚えがあった。
「おやおや、これはこれは、梟を射ったかと思えば、またあなたにお会いできるとは……佳世さま」
あの天狗だった。漆黒の鎖かたびらを身にまとい、黒い翼をバサっと広げ、ゆっくりたたむ姿は、不気味以外のなにものでもなかった。
「あんたさっきから、しつこいよ。それに私の名前は十真だ。梟じゃない」十真は佳世に背中を向けた。
十真の背中は美しかった。真っ青の衣に、梟のような白い翼と腰のあたりまで伸びた髪がそよ風に揺られるさまは、ここが戦場である事を忘れさせるほどであった。
十真は腰に下げていた短弓と矢筒を外し、「持っていてね」と佳世に手渡した。
矢筒の下に隠れていた十真の腰に、湾曲した短刀が鞘におさめられていた。
佳世は十真から離れた。
「やっと立ち向かう気になったかな。私の名は鞍丸」そう言うと、鞍丸は腰を落とし片眉をあげながら槍を大上段に構えた。「いざ」
相手の声と同時に十真は走りだした。
鞍丸は浅く素早く踏み込み、十真の怪我している足を狙い――突く。が、見せかけだった。槍の穂が突きから払いに転じる。反対の足を狙ったものだった。
しかし、それを予測していたかのように十真は鞍丸に向かって跳びあがる。身体をひねりながら右手を自分の腰に回す――翼を広げ身体のひねりを止める――身体の正面が鞍丸の左肩に合わさる。
一閃。
がきん、という音が夜空に突き刺さる。鞍丸の首を狙った十真の湾曲した刃は、赤い槍の柄に喰い込んでいた。
両者の目が激しく、ぶつかる。
十真は鞍丸の背後に降り立つと、後方に跳びはね間合いを取った。
「面白いね、あんた」十真は言った。
「あなたもですよ。梟とは初めて戦いますが、なかなかどうして、素早い。だが――」
「だが、なに?」
「この地にいるはずのない梟がなぜいるのでしょうかね? ヒムカの人間がよそ者とつるんでいたとは、とても思えませんが?」
「何が言いたい?」
「よそ者は邪魔しないで頂きたい。私は王の持ち物を返して頂ければ良いのですからな」
「持ち物?」
「それは……渡せません! これは月のカムイ様のものです!」佳世は叫んだ。
「月のカムイ? じゃあ、あの子が大事そうに抱えているものが……」
十真は佳世の両腕に抱えているものを、ちらっと見た。
そして、鞍丸に視線を戻すと、にやっと笑った。
「邪魔する」そう言葉を吐きながら、十真は鞍丸に飛び掛かった。
お互いの刃がぶつかるたびに閃光がほとばしる。
決着はつきそうもない。