八国ノ天
天狗はしばしの間、佳世の顔を覗き込んでいた。
佳世も黙っていた。もはや、木箱が壊れているのは誰の目から見てもあきらかだった。
包みを支えている両腕が、小刻みに震える。
――顔を逸らしてはいけない。
天狗は黙って体を反転させると、入り口に向かって歩きだした。佳世は静かに息を吐き出す。
佳世は衛兵に会釈すると、階下へと向かった。
階段おどり場で、佳世は一人の侍女が階段を昇ってくるのが見えた。佳世は会釈しながら、侍女の衿元を見た。
（あの衿の色は……王さまの侍女だわ）
佳世は、侍女が通り過ぎると足早に階段を下りて行った。
周囲に怪しまれぬよう、速足で歩く。途中、走ろうか走ろうかと何度思ったことか。動悸が早まっていく。
（早く、この城から出ないと！）
ついに、佳世は一階の出口前まで来た。
出口の両脇には衛兵が立っていたが、特に怪しまれる様子は無かった。
しかし佳世は気付いていなかった。あの部屋で天狗とぶつかった時、錠前を落としてしまったことを……。
突然、城内に甲高い笛の音が響き渡った。佳世の足が止まった。
衛兵が槍を交差させ出口を塞いだ。
（これは……）佳世の心臓は、はちきれそうだった。
（ここで向きを変えたら、怪しまれるわ）進み続ける。
「お止まりください。この音が聞こえませんか？」衛兵は言った。
「……、これは何でしょうか？」
「佳世さまは、まだこちらに来て日が浅いのでご存知無いかと思われますが、この音は賊が侵入した時のものです」
佳世はそう、と頷いた。
「ここは危険ですので、お部屋にお戻りください」
あと数歩進めば外に出られるというのに、目の前の出口が遠くに感じられた。
今やこの城は監獄と化した。
あれだけの物を盗られたのだ。あの天狗は今頃、兵を総動員して自分を必死に探しているだろう。捕まれば自分はもちろん、木沙羅さまも無事では済まされない――恐らく待っているのは死。
恐怖が脳裏をかすめる。
（どこかに隠れる？）浅はかな考えだった。立ち止まれば、捕まるのは時間の問題。
（恐れるな。立ち止ってはいけない――）
「わかりました。すぐに戻りましょう」と、少し驚いた表情で答えると佳世は足早にその場を去った。だけど一体、どこに行けば――？
一階は人が多い。佳世は窓を見た。ふと、立ち止まりすぐに、佳世は階段おどり場を目指した。
（二階の窓から屋根を伝って外に出よう）
そう考えた矢先だった。
「いたぞー！ ヒムカの侍女だー！」遠くから複数の兵たちが走ってくるのが見えた。捕まるわけにはいかない。
佳世は二階に駆け上がると近くにあったドアを押して、部屋に飛び込んだ。兵たちは背後の廊下に迫っていた。
佳世は窓に駆け寄った。
身を乗りだし下を覗き込むと、窓の下には片流れの屋根が壁から突き出ていた。
佳世は屋根へ飛び降りた。
だが、屋根から地上へ飛び降りることはできなかった。たとえ、できたとしても、すぐに捕まってしまうだろう。地上では、兵たちがあわただしく叫びまわっていた。だが、その叫び声は佳世に向けたものでは無いようだ。
「伊都だー！ 伊都に包囲されているぞ！ 戦の準備を急げー！」
遠くに黒煙が何本も立ち上っているのが見えた。
（まさか、伊都がこの城を攻めているの？）
「おい、いたぞ！ 屋根の上だ！」部屋の中からだった。
部屋の中を見ると、兵たちが部屋の中になだれ込むように入って来ていた。
佳世はスカートの裾を手で引きちぎり、太ももまで切れ目を入れた。
兵は窓に身を乗りだし手をのばした。佳世の腕を掴む。
佳世は手を振りほどこうと暴れ、前に倒れ込んだ。一人の兵が屋根に飛び降りる。
兵は倒れている佳世の足首を掴み、引っ張り込む。
佳世は体をひねって上半身を起こすと両手で踏ん張り、片足を金槌のように振り上げる。
そのまま、足首にからみついた兵の手首に踵をぶつける。
兵は悲痛の声を上げ手を離した。
佳世は這うようにして立ち上がると、別の屋根へと飛び移った。背後では更に、数名の兵が部屋から屋根に出ようとしていた。
佳世はもう一つ先の屋根へ飛び移った。
もう一つ。
落ちたらおしまいだ。
背後を確認してもう一つ。
窓だ！
佳世は窓から厨房に飛び込んだ。
厨房には誰もいなかった。
武器になりそうなものと縄を探した。
兵たちが窓に迫っていた。
だめだ。捕まる。
佳世は廊下に面したドアに駆け寄り、さっと開けて飛びだした。その瞬間、入れ替わるようにして兵たちが、今開けたドアから押し寄せるように入ってきた。
佳世は腰を屈め兵たちの間をすり抜け、階段おどり場へと走った。
下の階から兵たちが駆け上がってくるのが見えた。背後からも声を荒げながら兵たちが迫っていた。
佳世は階段を駆け上がった。
腕に抱えている包みが重い。ふくらはぎが、はちきれそうだった。
捕まるのはいや。
天守から外に出るしかない。
佳世は一気に天守のある階まで階段を駆け上がった。
天守には宴席用の屋外スペースがあった。
佳世は納戸を探した。
あった！
佳世は納戸の開き戸を開け、中に入った。開き戸の向こうから声がした。耳を澄ます。
「おい、聞いたか？ 伊都の人間が城内に紛れ込んでいるらしいぞ。今、下の階が大変なことになっているようだ」
「なに？ 相手はどんなやつなんだ？」
「大柄な戦士のような男と背の高い女の二人だ。男は大剣を振り回し、女は長巻と弓を持っている。こいつらに、かなりやられているらしいぞ」
「それって、まずいんじゃないか？ 俺たちも急いで加勢しよう」
ドタドタと足音が去って行った。
（大柄な戦士の男と背の高い女……伊都の人間だとすれば、その二人もこの書を狙っているのかしら？）
しかし、今はどうでも良いことだった。
暗闇の中、佳世は這いつくばるように、がさごそと手探りで縄を探し始めた。
遅かれ早かれ、見つかるのも時間の問題だ。少し音を発しようが、もう気にしてはいられない。
棚の感触――手を滑らせていく――あった！ 縄だ。縄の先には鉤が付いていた。それは、城壁を伝うための補修作業用の縄だった。
佳世は縄を手に取り、戸を開けようとしたその時――。
佳世は誰かにはじき飛ばされ尻餅をついた。
包みに入っていた光明ノ書と鍵、木槌、くないが飛びだし、音を立て床に落ちてしまった。
「ここにいたのですか？ お妃さまの近侍といえど、王のものを盗むとは許されませんな。万死に値しますぞ」
聞き覚えのある声だった。開き戸から差し込む光の中に烏のような黒い影――王の私室前で見た天狗だった。天狗の背後には数人の兵士の姿もあった。
――殺される。
佳世は天狗から目を離さず手探りで武器を探した。伸ばした手に鉄の感触――指をすかさず動かす。暗闇に見えるのは天狗の革靴。
天狗は槍を頭上で振りかざし、腰を深く落とした。
「大丈夫です。心臓を破裂させますので痛みはありません」
ヌメリを伴い厚い刃が妖しく光る。
それを目にした瞬間、思わず佳世は悲鳴をあげていた。
佳世は腕を振り上げ、天狗の足めがけ、手にしたそいつを思いっきり刺し込んだ。