マイナス、あるいは最悪の誕生日
教室に着くと油性マジックで丁寧にデコレートされた私の机がある。塗りつぶされたというのではなくて、それぞれ落書き帳の代わりにこの木目板を使っただけらしい。よく目を凝らせば語彙の少ない罵詈雑言が書かれている。完全な漆黒というわけではないのが若干気に障るが、こういうカオス的なわけのわからないものが私は嫌いではない。
彼らは、どうやら私を迫害の対象にしているらしかった。だが、私のそれの捉え方は彼らの意図とは全く違っている。私は迫害への耐性を備えた新人類だ。していないように見えて、人類もきちんと進化しているのだ。天敵である人類への免疫を高めるという形で。
中々着席しない私にそれを嘲笑する声が聞こえる。これで私にダメージを与えたつもりなのだ。甘噛みで満足する愛犬のようだ。私が辟易し衰弱し狼狽しているとでも思っている。かわいいやつらだ。
私は満面の笑みで言ってやることにした。
「画鋲のプレゼントと、机の寄せ書きありがとう」
ハッピーバースデイトゥユーを自分ひとりで大声で歌う。ハッピーバースデイトゥミー。
いままで楽しげだったクラスメイトどもはそれを聞いた途端黙ってしまい、悪魔でも見つめるように、怯えらしい感情を顔面カンヴァスに描いた。人生を楽しもうというなら、図太さが足りない。恐らく彼らのうちの半数ほどはそれをこれからの人生で手に入れられるだろう。だが残りの半数は、いつまで経ってもそれを手に入れる事は出来ないに違いない。それが大金であったとして、彼らにはそれを受け止めるスーツケースがない。
やがてチャイムは鳴り、担任教師が入ってきてホームルームが始まり、終わった。それぞれの教科担当たちが日替わり弁当のように現れては消えていく。その間も冷ややかな視線は時折思い出したように私に向けられた。まるでアイドルだ。
挑発的なポーズの一つでもとって震え上がらせてやりたいところだが、生憎と私は鉛筆を走らせるだけで精一杯だ。塾にも行かずに成績トップを維持するのは中々骨の折れることなのだ。元々頭の出来がいいわけではない私にとって。
そうしたファンサービスのできない不徳に心を痛めつつも勉学に励んでいると、疾風のように時間は過ぎていく。ファンたちは午後からのステージを心待ちにして、ひと時昼食の時間をとって英気を養う。私は食べない。アイドルは多忙なのだ。これから別のステージに向かわなければならない。
私たち二年生の教室は三階に位置している。窓から外へでる冒険さえすれば、屋根の無い渡り廊下を別棟向けて渡るだけで簡単に体育館の屋根の上へ出ることが出来る。とは言っても教師を含めた皆が昼食をとるためにランチョンマットを広げているからこそできる芸当なのだが。
経費の削減か、雨が降れば二階側に回らなければ渡れなくなる不便なその廊下を渡り、音楽室や美術室などの芸術系、進路相談室などの談話室系の部屋のあるフロアにたどり着く。人影は誰もいない。皆昼食を食べに行っているはずだ。
私はさび付いて抵抗の強くなった鍵を開け、窓を開いて身を乗り出す。屋根で繋がった先に体育館があるおかげで、そこを歩くだけで目的地につくことができた。案外呆気ない、けれど中々楽しい冒険だ。
急な傾斜になったそこを登りきって、昼食を摂るため食堂に群がる生徒たちを見るために体を反転させて腰掛けた。
なるほど椿がよく座っているのも頷ける。これは中々の絶景だ。蠕動する襞のような生徒たちが各々の目的地へ向かって意志をもって歩いている。意外なことに誰も私を見上げて指をささない。ここほどのステージを、私はこの学校の中では思い描けないのに。
私が昨日カゲロウを流してしまおうと手を洗っていたあの手洗い場も見える。ふと笑いがこみ上げてくる。つい大笑いしてしまう。何がおかしいわけでもない、ただ笑う。私は昨日の私を見下ろしている。目を凝らせばそこに、私を睨んでいる私の姿が見えた。チェシャ猫のように意地悪く笑って見せると、私はその場をじっと見つめた。私は憤慨したように校舎へ入っていった。それがさらに笑いを誘った。腹が痛み出すくらい笑う。
笑い終わると疲れて顔を上に向け、空を見る。と、私は愕然とする。
あの鉄塔から見つめているのは誰だろう。あれは椿ではあるまいか。彼はまだ私を見つめていた。屋根の上からどころでない、もっと高いところから、あの黄土色の僧衣を着て、チェシャ猫のように笑って。
ここに来てみてわかったことがある。高くから見下ろすほど、見下ろすものはどうあっても滑稽にしか見えない。私がどう動こうと、椿は喜ぶだけだ。
私は急に恥ずかしくなって体育館の屋根から下りた。ここに上ったのがそもそもの失策だったのだ。
無駄足だったとため息を吐きながらポストを覗くと、もう返事が入っていた。あの監視者からだ。
「手紙ありがとう。確かに僕はその部屋番号を覗いていた。君の暇な時間は間違いなく僕も暇だから来てくれ」
殴り書きしたような文字だ。相手も見えないのに雄雄しささえ感じる。
私は今暇だろうか。と考えかけてから悩むまでもなく暇だったことを思い出した。なにしろ、鍵がかかっていて部屋に入れないのだ。あの二人はついに私を部屋に入れることさえ止めてしまったのか。
制服を着て通学鞄を持ったまま、私は彼の部屋を目指した。いくらか階段を登って、その目的の部屋の前に立つ。私はエレベーターが嫌いだ。
インターホンを鳴らすと、すぐに彼は現れた。いや、一つだけ違う。現れたのは男ではなく女性だった。男装風の出で立ちをしている彼女は、艶やかに微笑むと私に囁いた。
「いらっしゃい。とりあえず入りな」
ドアを開放したまま部屋に引っ込む彼を追随して私もその部屋の中に入る。戸を閉めるのを忘れなかったら、彼女は「ありがとう」と声をかけてくれた。
部屋に入ってみると、あまりにも殺風景だ。女性の部屋らしくない。本当にほぼ何もない。望遠鏡と彼女と冷蔵庫だけが寂しげに佇むのみだ。
「今日、君は帰ってみると戸に鍵がかかっていたからこの部屋に来た」
「そうです」
彼女は微笑んだ。真っ白の肌は、美しいと言うよりは病的という言葉が似合っている。しかし実際に何らかの病気というわけではないのか、瞳も髪も黒く、カーテンも特別なものどころか一般的な遮光カーテンすらかけられていない。恐らくただ紫外線に当たっていないだけだ。
「それで、君は僕に何を言いたいのかな」
「私の着替えを覗く意味を聞こうと思って」
彼女はくつくつと笑った。
「君、魅力的だからねえ。つい見ていたくなるのさ」
その両目はきっちりと私を見据えていた。獲物を目の前にした肉食獣のようだ、などと私は感じずにはいられなかった。気を抜いたら頭から飲み込まれてしまうような漆黒の瞳が、私が彼女を見るたびに私の怯えを映した。
「あとね、あの部屋面白いんだよ。君は子どもの頃に高いところに登った経験あるかな」
さっき体育館の屋根の上に登ったことを思い出す。それよりさらに高いところから見下ろされていたことも思い出す。その驚愕もきっちりと思い出す。そして首を縦に振る。彼女は満足そうに目を細める。
作品名:マイナス、あるいは最悪の誕生日 作家名:能美三紀