マイナス、あるいは最悪の誕生日
原稿の上の君は私と同じように今考えていることを書くことを思いつき、それは書けないことだということに思い至った。そして小説が書けないが小説を書きたい小説家は小説を書きたい小説家が小説を書けない小説を書き始める。小説が書けないが小説を書きたい私が書いた小説が書けないが小説を書きたい小説家が書けない小説を書きたい小説家の書いた小説についての小説を書きそれは小説が書けないが小説を書きたい小説家が小説を書きたいが小説を書けない小説家の小説についての小説になる。
このレイヤー構造は下層に向かって合わせ鏡のように無限に続くと同時に、上層に向かっても同じように無限に続くことが出来る。つまり私がこうして小説を書けないということを苦悩する様を自らも小説を書きたいが書けないという不運に見舞われた小説家が書いているということもありうる。彼もまた書かれたる存在でありうるし、それを書いた彼も同じように書かれたる存在でありうる。ぞっとする話だ。そして、子供だましだがロマンティックな話だ。実際は私が書いた小説を書けない小説があるのみで、その先にも、或いは私の上層にも、アンリミテッドという概念は存在し得ない。
私はようやく乗り出した筆を置いた。両親が帰って来るまであと少しあるが、返して言えばあと少ししかない。やっとの思いで書き出した小説についての小説についての小説を私は机の引き出しの中に隠した。波に乗っただけでかかれる文章は下らないものになることがあって好かない。エンジンがかけられるまでの駆動の時こそ、丁度いい濃度の文章が生み出される。私はそう思う。
明日はその続きを書いても良いし、新しい話を書いても良い。私は余暇の時間を言葉の砂漠ですごしたいだけで、物語を完結させるということにはあまり興味がないのだった。
ふと思うのは、その無頓着が文章を書けなくさせているのでは、という危惧だ。だが、その真偽を確かめる前に、両親が帰宅してきた。
そうなると私は勝利の塔に登りきれない旅人の影に張り付いて怯え、死を覚悟し、ゴロゴロと転がり落ちてはまた次の旅人を待つが如く沈黙を守るしかなかった。彼らは私が勝利の塔に登りきる可能性があると知るや否や、塔そのものを破壊するような行動に出てもおかしくない。私が塔の頂に立つことはほぼありえないのに。彼らは私を碌でもない人間だと貶し、ストレスの掃き溜めのように使っていた。劣等感の裏返しだ。私のとてもかわいらしいクラスメイト達と一緒だ。
しかし教育熱心だった彼らがそう転じたのは非常に興味深いところがある。何らかのトリガーがあるならばその変貌も理解できそうなものだが、なんと彼らの変貌には少なくとも私の知るところによれば引鉄は存在しなかった。形はもう出来上がって、あとは水が注がれさえすれば旅立てる用意のある水差しと同じように、彼らにもまたフラストレーションを一定まで溜めれば暴発するようなトラップXが仕掛けられていたのだろうと睨んでいるのだが、事実は何らかのトリガーがあったという面白みのない話かもしれない。映画監督が名作映画化に意気込むのが作品への愛ゆえではなくそれが齎す利益が理由だ、と聞かされるような夢のない話だ。叶うならば、勘当してくれようが何をしてくれようが構わないので、そのネタばらしだけはやめてもらいたいと常日頃思っている。
「もう晩飯食べたのか」
父の声はかつてのそれと比べれば声楽家の歌唱のそれと坊主の読経のそれほどの隔たりがある。変化したのではなく、恐らく変遷したのだろう、と私は無表情に彼を見つめた。哀しげにしても楽しげにしても、はたまた彼と同調しても彼は目を三角にして声を張り上げて私の腕を折りに来る。どうして腕なのだろう。私には作家になる夢があり、その夢のためには腕がある方が便利なので、困る。
「食べた。コンビニ弁当」
嘘だった。私は何も食べなかった。少し気を緩めればこの一時にも腹の音が鳴ってしまいそうなほど、お腹と背中がくっつきそうなほどそれは空いて食べ物を求めている。
「お前は良いよな」
捨て台詞らしい言葉を吐いて彼は去った。暴力は厭わないくせに食事だけはきっちり与えるのは、私が死んでしまわないようにするための保険だろうか。それとも最後に残された親としての本能だろうか。心配されずとも、私は彼らに罪を着せる方法で死んだりはしない。彼らの理性の箍が外れて、私を暴力で潰してしまおうと本気で画策しない限りは。
そんなことよりも、そろそろ私は自室に向けられたあの向かいのマンションの望遠鏡の主とご対面したいと考えている。着替えを覗く、あの望遠鏡の主と。
どうにも私は女性だと思われているらしいのだ。確かに中性的な体つきと顔はしているし、着る服もユニセックスな物が多い。しかし、もちろん胸部に下着はつけない。着替えを覗いているならそれはわかるはずだ。或いは、あの望遠鏡は私の部屋ではなく別のどこかを狙っているといるのかもしれない。私はその謎の答えを求めている。どうすればあの人と話が出来るだろう。いきなり訪ねるのは不躾だ。だとすれば、どうにかしてコンタクトをとる必要があった。
と、それは簡単だということに気付く。部屋の番号さえわかれば、ポストに手紙を入れることが出来る。窓の位置を数えれば確かな番号を割り出すことができる。寂れた田舎の双子のマンションには、オートロックなどという機構もついていない。
私は喜び勇んでガラスペンと便箋を手に取った。昔父が買ってくれた、お気に入りのペンだ。インク壷につけて書き出すと綺麗な青の軌跡が便箋に引かれていく。惜しむらくは私の字があまり上手くないことか。
「私は、恐らくあなたが覗かれている部屋の主、着替えの主です。もしも勘違いであればすみません。勘違いでなくとも、私は告訴する気は全くないのです。ですから、出来れば会うことが出来ないでしょうか。もしかすると私の自意識過剰で、向けられているのは他の部屋の窓なのかもしれません。もしそうであれば教えていただければ助かります」
長々とした文章にはせず、端的な言葉だけを書いた。敬語にもあまり自信はない。ルームナンバーも示し、返事が来れば良し、来なければ仕方ないと見て部屋を訪ねても、諦めても良い。これを明日の登校時に入れておいて、反応を見ることにしよう。
今朝は、昨日の夜時間を割いてまで書いた一種のラブレターを監視者に渡すためにそれを私のマンションの双子の片割れにある、彼の部屋番号のポストに投函してから登校した。
家から学校までは幸いとても近い。歩いても五分もかからずに着いてしまうので、ただの一度も遅刻をしたことはない。今日もまた、今日に限ってその行路が千里万里に伸びるなどということも無く、いつも通り考え事のひとつにもまともな答えが出ないうちに着いてしまった。
下駄箱を開けて上履きを取り出す。金属同士のこすれあう音がする。覗いてみるに、誰のボランティアか過激な足つぼマッサージャとなった靴底が見えた。私はほくそえんだ。画鋲は両親が仕事でよく使うので、部屋においておけば喜ばれる。ボランティアも満足だろう。これだけの量の画鋲を買うのは財布が傷むので、私もとても嬉しく、ありがたい。
作品名:マイナス、あるいは最悪の誕生日 作家名:能美三紀