マイナス、あるいは最悪の誕生日
「すごいよね。今まで見えなかったものが見えるような気がして。でも見えてない。角度が変わっただけなんだよ。そういう面白さは、永らく忘れていたんだ」
君が思い出させてくれた、と彼女は付け足した。気障なせりふなのに彼女が言うとあまり不自然ではなくなった。そういう性質を持った男が女たらしになるのだ、と私は浮遊し始めながら感じ取った。私がなりえない将来像だった。
「どうだい、覗いてみないかい」
私は唾を飲み込んで頷く。彼女の魅力に飲み込まれてか、私は声を出せなくなっている。女性にこんな風な感動を覚えたのは初めてだ。
彼女が示す接眼レンズを覗き込むと、最初に見えるのはカーテンだ。馴染みの柄の、間違いなく私の部屋のものだ。なにしろ母の手製である。間違えることはない。
その部屋に灯が点る。カーテンが開かれる。そこには見慣れた顔がある。間違いなく私の顔だ。端整とは真逆に位置する顔で、快活とは真逆に位置する顔で、傍目にも気分のいい感傷のない顔だ。
私は驚いた。私の部屋に人がいると言うことは、私たち家族の住むあの番号の部屋に人がいるということだ。なのにインターホンをいくら鳴らそうが、ドアノブを回そうが彼は空けてはくれなかった。こんな不親切があるだろうか。
「君は君が見えて驚いている」
「私は私が鍵を開けてくれなくて驚いている」
彼女はまたくつくつと笑った。心地のいい笑い方だ。
「またおいで。今は用事があるでしょう」
私は彼女にお礼を言って私の部屋を目指した。出会い頭、一発拳を見舞ってやらねば気がすまない。
「まず最初に君に教えることがある。我が息子たる君に」
彼は気取って言った。右頬に手を当てて、それほど痛むのだろうか。まだ渾身というには足りないくらいの力しか篭っていなかったはずだが。いや、殴らされなかった、というのが正しい。私は彼の意図によって渾身の力で殴らせてもらえなかった。
「上の立場の人間を殴るということは、大方の世界ではタブーに近いんだよ」
諭すような物言いに、少し苛立たされる。
「けどこの場合は仕方ないな、私が君に私を殴らせたんだから。殴らないほうが失礼だ。そうだろう」
「お前は私に手を洗わせて小説を書けなくさせて手紙を書かせて体育館の屋根にのぼらせた」
私は睥睨させられる。もう一度殴りたいという衝動を掻き立てさせられる。させられることをさせられるということを悟らせられる。
「そう。中々出来ない体験だったでしょう」
ため息を吐かされて、私は怒りを収めさせられる。彼は微笑む。彼の思い通りにならないものは何一つとしてない。少なくともこのレイヤーにおいて。
「でも一つ違う。小説を書けなくさせられた、っていうのは君の誤解だ。といってもそれも私が誤解させているんだけど。わからないかなあ。わからないよねえ。私がわからないようにしているもの。私がやったのは君と同じことだよ。最初から君は小説が書けない。君は小説を書きたいという欲求を抱える小説を書くことが出来ない小説家として生まれた」
私と同じ声で、同じ顔で喋る彼は、じっくりと舐めとるように私を操作する。いや、こうして対面するまでも私は操作されていた。こうして対面するという儀式を通じて、彼は私に操作されているという感覚を理解させた。だから今、こうまでの違和感を感じさせられている。
「そしてそれを私にやらせたのもお前」
「そう、それは間違いない。けれど、君のその考え方はちょっと偏狭にすぎると思わないか」
彼は私の椅子に勝手に座って続けた。
「私がそれを書いたのも正しければ、君がそれを書いたのも正しい。そうだろう。下の立場の者Aの下の立場の者Bは、下の立場の者Aの上の立場の者Cより下の立場に違いない。C>A>Bという不等式くらいは理解できるはずだ」
わかっても、わからなくても、わからせられる。
「このとき、A>BもC>Bも正しいのもわかるね。私が君に書かせることで間接的に書いた君の小説は同時に君が書いたものでもある。君の支配下にある彼に私が君を通じて書かせたとも言えれば、君がそれを書かせた、と言うことも出来る。もし小説を書けない小説家の話を書くのが罪なら、君も私も同罪だ」
彼は勝手な意見を言っていると私に思わせた。それは詭弁だ。彼が書き出さなければ私がその罪を犯すこともなかったはずだと思わされる。
私はすでに怒りを覚えることが出来なくさせられている。いま私が懐かされている感情は、彼の語彙では表現のできないとても微妙なものになっている。敬虔な気分とでも言えば若干近いかもしれない。彼は表現を模索している。彼もまた、小説が書きたいのに書けない小説家の一人なのだ。
「でも君は知らないから私にだけすべての罪があると思うだろうね。いいかい。君は気付いただろう。君には私がいること。そしてつまり、私にも私がいるんだよ。そして、自分自身をモデルにさせた。だから君と私は同じ顔をしている」
パイ生地だかクロワッサンだかのようなものをイメージさせられる。無限に層を重ねる生地。一人一人に物語がある。小説を書きたいのに小説が書けない物語だ。
「そして私の私にも私がいる。鉄塔に登っても、まだそこより高くに椿はいる」
私は突然泣き出すことを余儀なくされる。私の視点が私から乖離しているから、私がされている行動を客観的に見つめている。そういう特例さえ作られなければ、私はただ彼に与えられる感情を自分のものと誤認するほかない。そういうことも理解させられる。また客観的視点も、支配から逃れうるものではもちろんないこともそうされる。
「泣かないでよ。泣きたいのは私の方だ。私の私は冷たいから私を泣かせてくれない。彼は私に君を泣かせることで私がどれだけ傷ついているか理解もしているのに」
私はいつまでも泣かされている。彼は彼のものでない意志によって私を泣かせている。救われない。救われないように出来ている。私だけは救ってやりたいと思う。けれど、それも彼が封じてしまえば出来ないことだ。私はまだ泣いている。何も言葉にならない。
「君は少なくとも君の物語を書かなくちゃいけない。私の支配の下で」
彼がそういうと、私は不意に眠気に襲われる。彼が私を寝かせようとする準備に入る。いくらか簡単な言葉で不自然さを消す。不意に、とか、突然、とか。あとはゆっくり音楽がフェードアウトしていくように意識の覚醒度を下げていく。言葉は簡単に私を寝かしつける。それでも彼の声を聞かせられる。今はとても眠いのに。
「ごめん。さっきは鍵開けてあげられなかったね。君はまだ彼女に会わないといけなかったから。私の私がそう書いたから」
出来うることなら私の書く物語には救いのあるように。それだけを忘れないように繰り返させられながら私は寝かしつけられた。
今日は最悪の誕生日らしい。
作品名:マイナス、あるいは最悪の誕生日 作家名:能美三紀