タフィー
彼の返答をヴィクトリアは静かに待っていた。「下書きを書くから、今日中に清書してくれ。あとテレサのドレスも注文するから、仕立て屋を呼んでほしい」
「かしこまりました」彼女は一礼して、さっそく仕事に取り組み始めた。
ウィンスタンは請求書を踏まないようにゆっくり歩いて席につくと、机の上にあった招待状の封を開いて中身を確かめた。ある手紙に気づいて手が止まった。親友トーレンスの家、ヘンリクセン侯爵家からの招待状だった。
彼はヴィクトリアのうしろ姿を見た。彼女はエクトール家に住み込みで働いているが、実際はトーレンスに雇われていた。ウィンスタンが健康を取り戻して、エクトール家が立ち直ることができたのも、トーレンスが彼女をみつけて連れてきてくれたおかげである。ぜひ出席しなければならなかった。
彼は下書き用の便箋を一枚取り出すと、ペンにインクをつけて書き出そうとした。しかし先程垣間見た、細くて白い足首が頭の中をちらついて、なかなかペン先に集中することができなかった。彼はあきらめて、失敗した便箋をくちゃくちゃにまるめて、くずかごに投げ捨てた。
結局その日は、仕事に集中することができなかった。
返事の下書きを書いては失敗し、また書き直すという作業をやっと終えたとき、時計の針は夜の十二時をまわっていた。今日中に清書するようにヴィクトリアに言ったものの、当然それは無理な話だった。
「ヴィクトリア、清書は明日でいいから……」と言いかけて思い出した。
(ああ、遅いから部屋に戻るよう言ったんだっけ)
自分が起きて仕事しているときは、いつも彼女がそばにいたので、最近ではそれが当たり前のようになっていた。うつらうつらと居眠りしていた彼女を、一時間前に開放したことをすっかり忘れていた。
ヴィクトリアは、ウィンスタンが知る貴族の女性たちとまるで違っていた。
彼女は自分より五歳年上で、会計や投資についての知識も経験も豊富だったし、行儀作法についても申し分なかった。かと思えば、今朝のような他愛のない失敗をして、彼の笑いを誘うことも多々あった。彼女は不思議な魅力を携えた人だった。
ウィンスタンは急にのどの渇きを覚えたので、寝る前にシェリー酒を飲むことにした。
節約のために明かりの数を少なくした廊下は薄暗かったが、窓から月光が差し込んでいたので歩くのに困らなかった。家の者たちは、明日のために早々と床についたようだ。屋敷内はしんとして、ウィンスタンの靴音だけが響いた。
貯蔵室の隣にある台所までつづく階段を下りたとき、甘ったるい匂いがウィンスタンの鼻をくすぐった。まだ誰か起きている者がいるのだろうか。台所のドアの隙間から光が漏れていた。そのまま通り過ぎようとしたが、彼は立ち止まった。隙間から見慣れた姿を目撃したためである。
(ヴィクトリア?)
誰もいない台所の前に立ち、彼女はいっしょうけんめい何かを作っているようだった。手を休めることなく、鍋の中身をぐるぐるかき混ぜていた。おいしそうな匂いがぷうんと漂い、彼の胃を刺激した。そのとき大きな蛙が鳴くように、腹が音を立ててしまった。
「だれ?」ヴィクトリアが驚いて、戸口のほうを振り返った。
ウィンスタンはいたずらがばれた子供のように頭をかきながら、彼女の前に姿を現した。
「驚かせるつもりなかったんだ。すまない、ヴィクトリア」
「だんな様でしたか……」ヴィクトリアは、ほっとした。「てっきり夢魔がやって来たのかと」
「君は夢魔を信じてるのかい?」ウィンスタンは驚いた。
「ええ、もちろん! あの高名な魔術師マーリンは、半分が夢魔ですもの」彼女は、少女のように瞳を輝かせた。
賭けてもいい。彼女の子供のころの愛読書は、トマス・マロリーの『アーサー王の死』に違いない。ウィンスタンは思った。
「普通の女性なら、湖の騎士ランスロットに憧れるものだと思うが?」若い女性が、年寄りの魔法使いに憧れを持つなんて、はじめて聞いた。
「普通ならそうですが……、わたくしは普通ではありませんから」ヴィクトリアの顔に影が差した。
普通ではない? ウィンスタンは、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気がした。 彼は気まずくなって他の話題を探そうと、彼女が手を休めずにかき混ぜている鍋の中身に視線を向けた。茶色のねっとりとした液体から甘い匂いがしてきて、彼の食欲を誘った。
ヴィクトリアは彼の視線の先に気づいた。「これがめずらしいですか?」
ウィンスタンはうなずいた。「ああ、見たことも食べたこともない」
「でしょうね」と言って、ヴィクトリアは微笑んだ。「貴族の方が召し上がるものではありませんから」
「じゃあ、君の家ではそれを食べるのかい?」
「これはタフィーといって、クリームと砂糖、はちみつなどを混ぜてつくるお菓子なんです。このあと冷やして固めてから割って食べるんですよ」
「ぜひご相伴に預かりたいが、ずいぶん甘そうだね」
「疲れたときは、甘いものを食べるのがいちばんなんですよ。昔、母がよく作ってくれて……」
ヴィクトリアは、はっと気づいて謝った。「すみません。つい、ぺらぺらと自分のことばかり話して」
「いいんだよ、仕事はとっくに終わってるんだから」彼女のことをもっと知りたくなった。ウィンスタンは話をうながした。「もっと話してくれないか?」
ヴィクトリアのからだが、びくっとした。「いいえ、もう遅いですから。だんな様、わたくしにかまわずお休みください」彼女の態度が急によそよそしくなったので、ウィンスタンは肩を落とした。
もう、魔法の時間は終わったのだ。
「おやすみ」と言って、彼女を見ずに台所を出た。
このままベッドに入っても寝られるだろうか。あきらめとも失望ともいえない思いを抱えて、ウィンスタンは薄暗い廊下を歩いた。
3
「はあ? ヴィクトリアも連れて行く?」
ヘンリクセン家主催のパーティの当日になって、テレサが突然わがままを言い出した。彼女は今夜社交界デビューをすることになっていたのだが、怖気づいてしまったらしい。ウィンスタンがエスコートするというのに、それでも不安な彼女は、ヴィクトリアを連れて行きたいと言いだした。
「だって、お兄様は男性だもの。殿方にはわからないことがあるわ」テレサはうつむいて、手にしたレースのハンカチをいじっていた。「ヴィクトリアさんなら同じ女性だし、彼女がいてくれると安心だもの」青白い顔をして椅子の背にもたれていたので、ウィンスタンは彼女のことが心配になった。
「具合が悪いなら、辞めたっていいんだぞ」テレサの肩を抱いて言った。
しかし、彼女は頭を横にふった。「だめよ、トーレンス様がお待ちになってるわ。それに、これは……原因はわかってるの。病気じゃないからだいじょうぶよ」
テレサが頬を染めたので、ウィンスタンもつられて赤くなった。
(ああ、そうか。女性ならでわの……)
彼にもやっと、テレサの不調の原因がわかった。
「じゃあ、母上に相談してこよう」急いでテレサの部屋をあとにした。
馬と馬車の用意を執事に命じてから、レディ・エクトールの部屋のドアをノックした。「母上、ウィンスタンです。ご相談したいことがあるのですが」