タフィー
母の客なのになぜ自分が? お悔やみなら、ひととおり済ませたはずなのに。それとも遠方から来た大事な客なのか? ウィンスタンは頭をひねったが、心当たりがまったく思い浮かばなかった。
「わかった。すぐ行こう」執事の後について、階下にある応接室へと向かった。
執事が応接室のドアを開けるのを待って中へ入いると、ウィンスタンの母親レディ・エクトールと、その隣に妹のテレサがソファにすわっていた。テーブルを挟んだ反対側には、トーレンスがすました顔でなごやかに談笑している。
(なんだ、トーレンスか)
客と聞いてあわててやって来たものの、その相手が彼だと知って拍子抜けした。
しかし、その後ろで物静かに立っている女性に気づいた。チョコレート色の髪を頭の上で丸くまとめ、清潔な襟が高いブラウスに、床を引きずらない程度の長さのスカートを身に着けていた。簡素な身なりからトーレンスが連れて来たメイドだとすぐにわかったが、彼女の足元に旅行用のかばんが置いてあったことが気になった。
「ウィンスタン、来たわね」母親が待ちかねたように声をかけて、頬を差し出した。
ウィンスタンははっとして母親に目をやると、彼女の頬にキスをした。「母上もご機嫌麗しく」
レディ・エクトールは満足そうにうなずいたので、今度はトーレンスに挨拶を述べた。
「トーレンス、君らしくないな。ぼくじゃなく母を訪ねるなんて」気を取り直して、右手を差し出した。
トーレンスは立ち上がって、彼の右手をぎゅっと握り返した。「約束しただろ? 君の秘書を雇うって。だから連れて来たんだ。君の母君や妹君にも会わせたくてね」
自分の後ろに立つ女性を紹介した。「彼女はヴィッキー、ヴィクトリア・ワース。ぼくが雇った君の秘書さ」
ウィンスタンは驚いて、どしんとソファに尻もちをついてしまった。
「ウソだろ? 女性じゃないか? オレはベッドの相手を探してるんじゃないんだぞ」
思わず余計なことまで口走ってしまった。それを聞いてテレサは頬を赤らめ、レディ・エクトールはこちらをにらんだ。
「もちろん、そのつもりだ。彼女は速記だって暗算だってなんだってできる。男顔負けの仕事ができるんだ。なんてたって自由の国アメリカから来たからね」
トーレンスが得意げに話したので、ウィンスタンはまた彼女をみつめてしまった。
彼女はウィンスタンたちを直視しないよう、向こう側の壁を凝視していた。こちらの会話が聞こえてるはずなのに、まったく表情に変化がない。頭がいいだけでなく、礼儀も心得ているらしい。それによく見ると、鼻の上のそばかすがチャーミングだった。
「よかったわね、お兄様。いい方が見つかって」妹のテレサが沈黙を破った。「これでゆっくりお休みになれるわ」兄に向かって、にっこり微笑んだ。
「いや、しかし……」ウィンスタンがこの女性を連れ歩く姿を見て、世間はふたりの仲を疑うだろう。純粋に秘書として見るはずもない。そう言いかけたのを、レディ・エクトールがさえぎった。「ウィンスタン、鏡で自分の顔をよく御覧なさい! まるで死人のようですよ」
「そうですわ、お兄様。このままではご病気になってしまいますわ」テレサも詰め寄った。
トーレンスは、それを見て笑いを殺していた。本当は今すぐにでも、廊下に走り出て大笑いしたいにちがいない。あとで覚えてろ! と思った。
「私は賛成ですよ、ウィンスタン。女性だからといって甘く見てはいけません」
レディ・エクトールは息子にきっぱり言ってから、ヴィクトリアに向き直った。「出来の悪い息子をよろしく頼みます」
「はい、奥様」彼女ははじめて口を開いて、ウィンスタンを見た。「よろしくお願いいたします、だんな様」
アーモンドのような、形のいい瞳にみつめられて、彼はなんとなく、落ち着かない気持ちになってしまった。
2
ヴィクトリアがエクトール家へ来てから三ヶ月後、状況は見る見るうちにいい方向へと向かった。トーレンスが言っていたことは嘘ではなかった。彼女は請求書と財務の一覧表を整理し銀行に通って、弁護士か会計士のように黙々と働いた。
そのおかげでウィンスタンは椅子でなく、ベッドの上で眠ることが出来るようになった。顔色も健康的になり、家族とともに食卓を囲む余裕が持てた。
それに比例して、彼女はエクトール家の人々の信頼を得るようになった。
卵とベーコンの朝食と食後の紅茶を楽しんだ後、ウィンスタンは仕事のために書斎へ向かった。いつもどおりならヴィクトリアが先に来て、昨日届いた手紙――そのほとんどはパーティの招待状だったが――を整理してたはずだった。
書斎のドアを開けて、中に一歩踏み出そうと右足を出しかけたとき、ヴィクトリアの制止する声が飛んできた。「あっ、お待ち下さい!」と言ったときは、遅かった。すでにウィンスタンは花屋から届いた請求書を踏みつけていた。
「申し訳ございません、だんな様。わたくしの不注意で……」ヴィクトリアがあわてて謝罪しようとした。
「ああ、いいんだ。どうせ請求書なんだから」ウィンスタンは、笑いがこみあげてきた。「それより、君はそこからどうやって動くんだ?」こらえきれず、とうとう吹き出してしまった。
椅子やテーブル、床の上など書斎のいたる場所に、きちんと仕分けされて整理された書類が並べられていた。その真ん中で彼女は困った顔をして立っていたのである。彼女の周辺も書類でいっぱいだった。それを踏まなければ一歩も動けそうにない。
「はい、助けて下さる親切なお方をお待ちしておりました」ヴィクトリアが耳まで真っ赤にして言ったので、ウィンスタンは彼女を助けることにした。
「では、その親切なお方とやらに、オレがなってやろう」彼の足元にある書類を、破かないように靴のつま先でそっと動かして道をつくった。そして紳士らしく彼女の手をとって、こちら側に導いた。
「ありがとうございます、だんな様」彼女はスカートの裾を持ち上げ、礼儀正しく言った。そのとき、ほっそりした足首が一瞬目に入った。彼はあわてて彼女から視線をはずした。
「さあ、仕事にとりかかろう」そう取り繕いながら、ウィンスタンは床の上の請求書を拾い上げた。「これは、どうすればいいんだ?」
「そちらは支払い先別にまとめて、帳簿に記入します。わたくしがいたしますので、だんな様は手紙のご返事の下書きをなさってください」ヴィクトリアは、平静を取り戻していた。
「返事?」
「左様でございます。だんな様が出席されたほうが良い、パーティの招待状を奥様がお選びになりました。そろそろ社交界の場にもお顔を出さなければ、とおっしゃいまして」
「パーティか……、面倒だな。金がかかるし、いっそのこと断ってしまおうか」
ウィンスタンは深いため息をついた。社交界でのつきあいがあまり好きではなかったので、そういう集まりにはできることなら参加したくなかった。サー・エクトールが亡くなった折には、喪中ということもあって行かなくてすんだが、これからはそうもいかない。妹のテレサのことも考えてやらねばならなかった。