タフィー
1
ウィンスタン・エクトールは、いままでの人生の中で最も立腹した。
といっても彼の人生は、まだほんの十六年と七ヶ月にしかならないのだが、とにかくあまりにも腹が立ったので、近くにあった仕事用机を蹴飛ばした。おかげで山のように積み上げられた、サイン待ちの書類が雪崩を打ち、そこらじゅうの床の上に散らばってしまった。そのうえ、蹴飛ばしたときの角度が悪くて、右足首を痛める始末だ。
苦痛に耐えられず、その場にしゃがみこんでのた打ち回った。一ヶ月前に突然この世を去った彼の父親、サー・エクトールの呑気な顔が脳裏に浮かんだ。
(あんのクソ親父、余計なもん残しやがって)
心の中で罵倒せずにはいられなかった。
本当は大声を出して罵りたがったが、理性をフル動員させて、それだけは避けた。屋敷内では主人の動向に敏感な使用人たちが、いつも注意深く見守っているからである。広い家とはいえ、いつどこで誰の耳に入るかわからない。彼らのあいだで噂になって、ウィンスタンの母親レディ・エクトールに知られることを恐れた。悲しみに打ちひしがれている彼女に、余計な心配をかけたくない。
深いため息をついて立ち上がると、あちこちに散乱した書類を一枚、一枚拾い集めては机に戻すという気の長い作業を始めた。
そのとき誰かが書斎のドアをノックした。ウィンスタンが「どうぞ」というより早くドアが開いて、銀髪の背の高い青年が遠慮なしに、ずかずか入ってきた。
「やあ、ウィン……じゃなかった、エクトール侯。ごきげんいかがかな?」
青い瞳がいたずらっぽく輝いた。無二の親友、トーレンス・ヘンリクセンだった。彼もまた、侯爵という家柄の跡継ぎ息子だ。
「なかなか楽しそうな遊びをしているな。オレも仲間に入れてくれないか?」散らかった室内をぐるりと見回して言った。
「なんだ、トーレンス。また勝手に来たのか?」
ウィンスタンは、あきれた顔をした。
自分より二歳年上のこの親友は、いつも前触れを出さずに、突然彼の元を訪れるのが常だった。来客中だろうが、食事中だろうが、おかまいなしだ。さすがにメイキング・ラブの最中は遠慮するだろうが、きっと事が終わるまで応接室のソファでにやにやしながら待ち構えてるにちがいない。トーレンスとは、そういうヤツだ。
しかしウィンスタンは、素直に親友の申し出を受け取ることにした。
「まあ、いいさ。それより頼むよ、トーレンス。秘書が辞めてしまったので、恥ずかしいことにこの有様なんだ。二、三週間前の手紙の返事すら出せなくてね」
トーレンスは両手を広げて、おおげさに驚いた。「それはまた、どうして? クビにしたのか?」
「いや」ウィンスタンは頭を振った。「金目のものを盗って、逃げ出したんだ」
トーレンスは、あどけなさが残るその横顔を、ぽかんとみつめるばかりだった。
それからしばらくたって、書類が一枚も残らず集められ元の位置に収まった。室内がきれいに片付くと、ウィンスタンはトーレンスのために自ら貯蔵室に行き、上等なブランデーを一本選んで持って来た。
「礼を言うよ。思ったより早く片付いた」紅茶が入ったティーカップにブランデーを数滴注いで、トーレンスに勧めた。
「しかし驚いたな。この書類の束の半分が借用書だったとは」彼はカップを受け取ると、椅子の背にもたれて長い足を組んだ。「先代もなかなかやるね。温厚でお人が好すぎる方だったが」
トーレンスは、サー・エクトールの人好きする顔を思い浮かべた。
「だからだ」ウィンスタンは紅茶をひと口飲むと、わざと音を立ててカップを置いた。「だから今困ってるんだ。あとに残された者の気も知らないで、あんのクソ親父!」小さな声で罵った。
(はは、クソ親父ね)
トーレンスは苦笑いした。「それにしても、いったいなんの借金なんだ? 女か?」
「寄付だ」ウィンスタンは、あっさり言った。
「寄付!? なんの?」意外な答えが返ってきたので、トーレンスは驚いた。
「教会の鐘を新しく作るとか、めぐまれない者たちに温かい食事を与えるとか、とにかくいろいろなんだ。来るもの拒まずというより、断れないっていったほうが正しいな」
「へえ、寄付でねえ。それは奇特だな」
「おかげで領地のほとんどが抵当に入っている。この屋敷以外なにも残ってないんだ。オレは貴族とは名ばかりの、貧乏人さ」ウィンスタンは顔をしかめた。「秘書は当然それを知ってたんだ。だから逃げ出したのさ。沈没しかけた船から、真っ先にとんずらするネズミみたいにね!」
(は~ん、それでか……)
トーレンスは納得した。ウィンスタンの前では何も知らない振りを装っていたが、実はある手紙が彼の元に届いていて、事情を知っていたのだ。
その手紙の差出人は、ウィンスタンの妹テレサだった。ろくに食事もとらないで一日中仕事部屋に閉じこもっている兄を心配するあまり、彼女はトーレンスに助けを求めてきた。
先代の引継ぎがあって忙しいだろうと、エクトール家の訪問をしばらく控えていた彼は、その手紙を読んで、いても立ってもいられなくなったのだ。その足で急いでウィンスタンを訪ねた。
そうしたら案の定、今にもぶっ倒れそうになっているではないか!
ウィンスタンの目は窪んでいて、あまり睡眠をとれていないことを物語っていたし、すっかりやつれて青白い顔をしていた。エクトール家の大黒柱としての自覚と責任感だけが、彼を仕事へと駆り立てていた。
はやく何とかしなければ、エクトール家はまたしても当主を失いかねない。
トーレンスは親友の窮地を救うべく、ある提案をした。「なあ、ウィン。新しい秘書を紹介してやろうか?」
「何言ってるんだ、トーレンス! 今事情を説明したばかりだろう? 雇う余裕があると思うか?」ウィンスタンは、にらんだ。
「いや、給金なら要らない。オレが雇うんだ」トーレンスは不敵に微笑んだ。「そうだ、お前に文句なんか言わせないぞ。オレがお前の秘書を雇うんだからな!」
ティーカップにブランデーをたっぷり継ぎ足して、トーレンスは一気にそれを飲み干した。ウィンスタンは彼が本気でそう言っていることを知って、彼の強引な性格を改めて確認したのだった。
今日は朝から雨が降っていた。ウィンスタンはいつものように書斎に閉じこもって、会計の帳簿とにらめっこしながら、請求書の山と格闘していた。昼近くになるとさすがに目が疲れてきたので、天井を仰いで目頭を指で押さえた。
(あいつ、やっぱり本気じゃなかったんだな)
トーレンスがウィンスタンの秘書を雇うと宣言してから一週間、連絡は一切なかった。しかし彼を恨む気持ちはなかった。自分のことは自分で始末しなければ。いくら親友と言っても他人に甘えることはできない。
軽いノックの音がしてドアが開いた。「だんな様、奥様がお呼びです」執事がうやうやしく用件を告げた。
「あとで行くと言ってくれ。今は忙しいんだ」忙しくないときなんてあるんだろうか。彼はそう思いながらも答えた。
「はあ、ですが……」いつもならこう言えば簡単に引き下がる執事が、今回は抵抗してさらに続けた。「奥様にお客様がいらっしゃいまして、だんな様にも応接室においでくださるようにと」
ウィンスタン・エクトールは、いままでの人生の中で最も立腹した。
といっても彼の人生は、まだほんの十六年と七ヶ月にしかならないのだが、とにかくあまりにも腹が立ったので、近くにあった仕事用机を蹴飛ばした。おかげで山のように積み上げられた、サイン待ちの書類が雪崩を打ち、そこらじゅうの床の上に散らばってしまった。そのうえ、蹴飛ばしたときの角度が悪くて、右足首を痛める始末だ。
苦痛に耐えられず、その場にしゃがみこんでのた打ち回った。一ヶ月前に突然この世を去った彼の父親、サー・エクトールの呑気な顔が脳裏に浮かんだ。
(あんのクソ親父、余計なもん残しやがって)
心の中で罵倒せずにはいられなかった。
本当は大声を出して罵りたがったが、理性をフル動員させて、それだけは避けた。屋敷内では主人の動向に敏感な使用人たちが、いつも注意深く見守っているからである。広い家とはいえ、いつどこで誰の耳に入るかわからない。彼らのあいだで噂になって、ウィンスタンの母親レディ・エクトールに知られることを恐れた。悲しみに打ちひしがれている彼女に、余計な心配をかけたくない。
深いため息をついて立ち上がると、あちこちに散乱した書類を一枚、一枚拾い集めては机に戻すという気の長い作業を始めた。
そのとき誰かが書斎のドアをノックした。ウィンスタンが「どうぞ」というより早くドアが開いて、銀髪の背の高い青年が遠慮なしに、ずかずか入ってきた。
「やあ、ウィン……じゃなかった、エクトール侯。ごきげんいかがかな?」
青い瞳がいたずらっぽく輝いた。無二の親友、トーレンス・ヘンリクセンだった。彼もまた、侯爵という家柄の跡継ぎ息子だ。
「なかなか楽しそうな遊びをしているな。オレも仲間に入れてくれないか?」散らかった室内をぐるりと見回して言った。
「なんだ、トーレンス。また勝手に来たのか?」
ウィンスタンは、あきれた顔をした。
自分より二歳年上のこの親友は、いつも前触れを出さずに、突然彼の元を訪れるのが常だった。来客中だろうが、食事中だろうが、おかまいなしだ。さすがにメイキング・ラブの最中は遠慮するだろうが、きっと事が終わるまで応接室のソファでにやにやしながら待ち構えてるにちがいない。トーレンスとは、そういうヤツだ。
しかしウィンスタンは、素直に親友の申し出を受け取ることにした。
「まあ、いいさ。それより頼むよ、トーレンス。秘書が辞めてしまったので、恥ずかしいことにこの有様なんだ。二、三週間前の手紙の返事すら出せなくてね」
トーレンスは両手を広げて、おおげさに驚いた。「それはまた、どうして? クビにしたのか?」
「いや」ウィンスタンは頭を振った。「金目のものを盗って、逃げ出したんだ」
トーレンスは、あどけなさが残るその横顔を、ぽかんとみつめるばかりだった。
それからしばらくたって、書類が一枚も残らず集められ元の位置に収まった。室内がきれいに片付くと、ウィンスタンはトーレンスのために自ら貯蔵室に行き、上等なブランデーを一本選んで持って来た。
「礼を言うよ。思ったより早く片付いた」紅茶が入ったティーカップにブランデーを数滴注いで、トーレンスに勧めた。
「しかし驚いたな。この書類の束の半分が借用書だったとは」彼はカップを受け取ると、椅子の背にもたれて長い足を組んだ。「先代もなかなかやるね。温厚でお人が好すぎる方だったが」
トーレンスは、サー・エクトールの人好きする顔を思い浮かべた。
「だからだ」ウィンスタンは紅茶をひと口飲むと、わざと音を立ててカップを置いた。「だから今困ってるんだ。あとに残された者の気も知らないで、あんのクソ親父!」小さな声で罵った。
(はは、クソ親父ね)
トーレンスは苦笑いした。「それにしても、いったいなんの借金なんだ? 女か?」
「寄付だ」ウィンスタンは、あっさり言った。
「寄付!? なんの?」意外な答えが返ってきたので、トーレンスは驚いた。
「教会の鐘を新しく作るとか、めぐまれない者たちに温かい食事を与えるとか、とにかくいろいろなんだ。来るもの拒まずというより、断れないっていったほうが正しいな」
「へえ、寄付でねえ。それは奇特だな」
「おかげで領地のほとんどが抵当に入っている。この屋敷以外なにも残ってないんだ。オレは貴族とは名ばかりの、貧乏人さ」ウィンスタンは顔をしかめた。「秘書は当然それを知ってたんだ。だから逃げ出したのさ。沈没しかけた船から、真っ先にとんずらするネズミみたいにね!」
(は~ん、それでか……)
トーレンスは納得した。ウィンスタンの前では何も知らない振りを装っていたが、実はある手紙が彼の元に届いていて、事情を知っていたのだ。
その手紙の差出人は、ウィンスタンの妹テレサだった。ろくに食事もとらないで一日中仕事部屋に閉じこもっている兄を心配するあまり、彼女はトーレンスに助けを求めてきた。
先代の引継ぎがあって忙しいだろうと、エクトール家の訪問をしばらく控えていた彼は、その手紙を読んで、いても立ってもいられなくなったのだ。その足で急いでウィンスタンを訪ねた。
そうしたら案の定、今にもぶっ倒れそうになっているではないか!
ウィンスタンの目は窪んでいて、あまり睡眠をとれていないことを物語っていたし、すっかりやつれて青白い顔をしていた。エクトール家の大黒柱としての自覚と責任感だけが、彼を仕事へと駆り立てていた。
はやく何とかしなければ、エクトール家はまたしても当主を失いかねない。
トーレンスは親友の窮地を救うべく、ある提案をした。「なあ、ウィン。新しい秘書を紹介してやろうか?」
「何言ってるんだ、トーレンス! 今事情を説明したばかりだろう? 雇う余裕があると思うか?」ウィンスタンは、にらんだ。
「いや、給金なら要らない。オレが雇うんだ」トーレンスは不敵に微笑んだ。「そうだ、お前に文句なんか言わせないぞ。オレがお前の秘書を雇うんだからな!」
ティーカップにブランデーをたっぷり継ぎ足して、トーレンスは一気にそれを飲み干した。ウィンスタンは彼が本気でそう言っていることを知って、彼の強引な性格を改めて確認したのだった。
今日は朝から雨が降っていた。ウィンスタンはいつものように書斎に閉じこもって、会計の帳簿とにらめっこしながら、請求書の山と格闘していた。昼近くになるとさすがに目が疲れてきたので、天井を仰いで目頭を指で押さえた。
(あいつ、やっぱり本気じゃなかったんだな)
トーレンスがウィンスタンの秘書を雇うと宣言してから一週間、連絡は一切なかった。しかし彼を恨む気持ちはなかった。自分のことは自分で始末しなければ。いくら親友と言っても他人に甘えることはできない。
軽いノックの音がしてドアが開いた。「だんな様、奥様がお呼びです」執事がうやうやしく用件を告げた。
「あとで行くと言ってくれ。今は忙しいんだ」忙しくないときなんてあるんだろうか。彼はそう思いながらも答えた。
「はあ、ですが……」いつもならこう言えば簡単に引き下がる執事が、今回は抵抗してさらに続けた。「奥様にお客様がいらっしゃいまして、だんな様にも応接室においでくださるようにと」