FLASH
38、揺れる想い
家へ帰る途中、沙織は沈んだ心だった。ユウが嫌いなわけでは決してない。だが鷹緒のことを思うと、胸がドキドキして止まらない。何が恋なのか、なぜユウを好きだと言うことが悲しかったのか、沙織にはわからなくなっていた。
ふらふらと夢遊病者のように、沙織は家へと帰っていった。
やっとの思いで沙織が家へ帰ると、部屋の前には鷹緒の姿があった。沙織は目を丸くさせる。
「鷹緒さん……!」
「おう、出かけてたのか。電話しても出ないから、どうしたのかと思った。デート中だったか? 邪魔してたらごめんな。これ、この間の礼。居なかったら、ポストに入れて帰ろうと思ってた」
手土産を見せながら、静かに笑って鷹緒が言う。
「鷹緒さん……」
震える声で、沙織がそう呼んだ。鷹緒は怪訝な顔をして、沙織の顔を覗きこむ。
「……どうした?」
沙織は、しきりに首を振った。
「……泣いてるのか? 喧嘩でもしたのか?」
鷹緒の問いかけに、沙織は首を振る一方だ。
「沙織?」
「……しないで……」
「え? 聞こえ……」
「優しくなんてしないで!」
沙織はそう言うと、鷹緒を押し退けて、部屋の鍵を開けようとする。そんな沙織の腕を、鷹緒が後ろから掴んだ。
「離して……」
そう言いながら、沙織は体を強張らせていた。時が止まったかのように、何も出来ない。
鷹緒は鷹緒で、どうしたらいいのかわからなくなっていた。ただ沙織の腕を掴んだまま、その先何をしたらいいのか、何を声かければいいのか、まるで浮かばない。
時間が止まった中で、カチャンと沙織の手首が回り、鍵が開いた。それを見て、鷹緒はゆっくりと沙織から離れる。
沙織は振り向いて、鷹緒を見つめた。涙に濡れた沙織の瞳は、すでに真っ赤に腫れている。鷹緒はそんな沙織を見て腕を掴むと、部屋のドアを開け、中へと入っていった。
玄関先で、二人はしばらく見つめ合ったままだった。
「……何が、あったんだ?」
しばらくして、鷹緒がそう口を開いた。その言葉に、沙織も我に返る。
「……鷹緒さんには、関係ない」
沙織の言葉に、鷹緒は押し黙った。
「帰ってよ……」
そう言う沙織に、鷹緒は目を伏せた。そこから動こうとしない鷹緒に、沙織は苛立って手を振り上げる。
「帰って!」
沙織の振り上げた手を、鷹緒は反射的に掴んでいた。沙織はそのまま涙を流す。鷹緒は沙織を見つめたまま、沙織の額に手をやった。大きな鷹緒の手が、沙織を包む。
「……熱なんかないよ」
「あるよ。おまえ、手、熱いじゃん……上がるぞ」
そう言って、鷹緒は沙織の手を掴んだまま、部屋の中へと入っていった。
鷹緒が沙織の部屋に上がるのは初めてだった。狭い部屋を見回すと、奥の寝室が目に入る。鷹緒は奥へと進んでいく。
「嫌だ、女の子の部屋に勝手に入らないでよ」
「なに、変なもんでも隠してあるのか?」
拒否する沙織に茶化すようにそう言った鷹緒だが、顔は真剣である。
そのまま鷹緒に、強い力でベッドに押し倒された沙織は、途端に布団を被せられた。鷹緒は寝室を出ていくと、洗面所でタオルを見つけ、濡らして寝室へと戻っていく。
寝室の沙織は、大人しくベッドに横になっていた。
「この間の、まるで逆だな……ほら、手退けろよ」
苦笑して鷹緒が言った。沙織は泣いているのか、両手で顔を隠している。沙織が手を退かそうとしないので、鷹緒は沙織の手の上にタオルを乗せた。
「冷たい……」
「おでこに乗っけろよ。俺の風邪が移ったのかな……ごめんな」
素直に謝る鷹緒に、沙織は小さく首を振った。
「……沙織。俺、どうしたらいい?」
少しして、静かに鷹緒がそう言った。どういう意味かわからずに、沙織がそっと鷹緒を見上げる。目が合った鷹緒は、真剣な眼差しで沙織を見つめている。
「帰ってほしいなら帰るよ。でも俺、おまえがいつもと違うから、心配なんだ……」
今日の鷹緒は、どこか素直に見える。そんな鷹緒に沙織が手を差し出す。それを見て、鷹緒もそっと手を握った。
「ごめんね。なんか今日、イライラしてて……」
沙織も素直に謝る。鷹緒を好きな気持ちに気付いたことで、沙織は鷹緒から逃げたかった。恋人であるユウにも悲しい思いをさせてしまい、どうしたら良いのかわからぬ苛立ちが、鷹緒にぶつけることで表れてしまっていたからだ。
「それはいいよ……それより、薬飲めよ」
鷹緒は風邪気味で常備していた、自分の風邪薬と水を差し出す。沙織はそれに応じて、薬を飲む。
「……だけど、何かあったんだろ?」
薬を飲んで横になる沙織に、鷹緒が尋ねた。
「ふふ。鷹緒さん、お父さんみたい……」
静かに笑って沙織が言った。鷹緒も優しく微笑む。
「そうだな……ここじゃ、おまえの保護者みたいだからな」
「……」
その時、沙織は突然起き上がり、鷹緒に抱きついた。
「……沙織?」
鷹緒は沙織を振り払うことも抱きしめることもなく、静かに尋ねた。沙織は抱きついたまま鷹緒を見つめ、そっと口を開く。
「苦しいよ、鷹緒さん……」
「え、おまえ、風邪……」
「どうやってももう、鷹緒さんと恋人になることは出来ないの……?」
その沙織の言葉に、鷹緒は一瞬、大きな瞬きをした。そして沙織を引き離す。沙織は熱に火照った体をし、腫らした目で鷹緒を見つめている。
「……からかうなよ。おまえには、トップスターがいるだろ?」
静かに笑って、鷹緒は立ち上がる。沙織はそのまま倒れるように眠りについた。
次の日。沙織が目を覚ますと、そこに鷹緒の姿はない。寝室を出ると、食卓となるテーブルに置き手紙があった。
“沙織へ。起きたらここに行くように。鍋の中におかゆあります”
手紙には鷹緒の字で、病院の名前と地図が書かれている。
沙織はガス台に置かれた鍋を覗いた。料理下手な鷹緒が作ったおかゆだけあり、決して美味そうには見えないが、沙織は嬉しかった。
「好き……です、鷹緒さん。好きです……好きなんだもん。しょうがないじゃん!」
おかゆを食べながら沙織が言った。鷹緒のおかゆは、少ししょっぱかった。
その夜。沙織は地下スタジオへと向かっていった。スタジオには、鷹緒の姿があった。
「沙織……」
鷹緒が驚いて言った。
「どうしたんだよ。病み上がりだろ?」
「うん。鷹緒さんに、会いたくて……事務所に行ったら、ここだって」
そう言った沙織は、どこか晴々としている。鷹緒は微笑み、口を開く。
「あとで、おまえのところに行こうと思ってた」
「そっか。でも、待てなかったんだ……」
「……なんで?」
「今、ユウと別れてきた」
沙織の言葉に、鷹緒は驚いた。
数十分前、沙織はユウの部屋に居た。
「ごめんなさい!」
深々と頭を下げて、突然、沙織が謝った。ユウにはその意味がわかっていた。
「やっぱり駄目か……」
苦笑してそう言ったユウに、沙織がそっと顔を上げる。
「え……?」
「相手は、諸星さんでしょう?」
「……うん」
静かに沙織は頷き、言葉を続ける。
「説明がつけられないの……私、ユウのことは好き。だけど鷹緒さんのことを考えると、胸が苦しくて、イライラして、悲しいの……」
「……うん」