薄桃色のメモリー
「うん……」
名残惜しさを振り切って、彼は私に背を向けた。
私はその姿が見えなくなるまで、目で追い続ける。
やがて本当に見えなくなった。
「そうだ、手紙……」
涙を拭いながら、私は握っていた手紙を開けた。思わず握りしめていたため、くしゃくしゃになっている。
“住友彩香様
まっすぐな君の気持に応えられない、不甲斐無い僕を許してください。
僕にはまだ、家族のことが過去に出来ません。今もふっと帰ってくるような、そんな気さえしています。
僕は良い夫・良い父親ではなかったかもしれないけれど、妻と子供を愛していました。それが突然いなくなるということは、心を失くしたも同然です。
ふと気が付いたけれど、子供の頃、転校ばかりを繰り返してきた僕にとって、この状態は同じだったのかもしれませんん。
新しい学校に慣れようと、無理して笑ったり、軽い人付き合いばかりをして、深く人と付き合ってこなかったあの頃と、今は似ています。
だから君が真っ直ぐに手を差し伸べてくれても、僕はどこか引いてしまったり、嘘ではないかと疑ってみたり……失うのが怖い、臆病者です。
今日、家族の墓参りに行ってきました。
あそこへ行くと、本当に自分は一人なのだと痛感させられます。
でも住友さんに出会って、僕の心は少なからず軽くなっていました。本当にありがとう。
今は手放しで受け入れることは出来ないけれど、今度会う時は僕が恩を返す番だと思っています。大切な家族以上に、君を大切に思えるように、僕は君のことを、そして家族のことを、きちんと整理して考えたいと思っています。
支離滅裂な文章ですみません。
落ち着いたら連絡します。それまでどうか、お元気で……。”
吹きさらしの街で、私は彼の手紙を食い入るように見つめていた。
やがて、気を落ち着かせるように、私は丁寧に手紙を封筒にしまう。
その時、便箋の裏にも何か書かれていることに気がついた。
“追伸。あの頃……学校で、消しゴム借りたことあった?”
ドキッとした。
私と彼の、二人きりの唯一の思い出。そして初めて交わした言葉を、彼が覚えていたなんて、夢ではないかと思った。
彼から勇気をもらったように、私は遠い空を見上げた。
私は、彼からたくさんのものをもらった。勇気、希望、絶望まで……。
私は彼に、何がしてあげられるだろう――。
彼が九州へ行って間もなく、私たちが作った子供服のサンプルが出来上がってきた。その段階から関係者には人気で、すぐにでも売り出そうという声まで上がったのには、鼻が高い。
それからしばらくして、私は彼にメールを出した。
手紙で返したかったのだが、彼の新しい住所は知らない。前に聞いていたメールに、仕事のこと、将来のこと、そして子供の頃、確かに消しゴムを貸したよ、と書いた。他愛もない話のほうが、彼も気楽に返事してくれると思ったのだ。
だが、彼からの返信はまったくなかった。
どこかエラーで届いていないのかとも思い、あれから何度かメールをした。でも返事が返ってくることはなく、いつしかメールアドレスも、電話番号すらも変わった事実を知った。
もう、会うことはないかもしれない。でもどこかで、“待っててほしい”と言った彼の言葉を信じている自分がいる。
「もういい加減、諦めなさいよ。連絡も取れない男に縛られる権利ないでしょ」
裕子はそう言った。
私もそれはわかっているものの、自分の意思すらコントロール出来ない。
新しい恋愛を無理にしようとした時期もあったが、結局彼を忘れることは出来なかった。
春――。薄桃色の桜が満開に咲く。
この季節になると、私は彼を思い出す。
あれからもう、五年の歳月が過ぎた。
「これで終わりですか?」
その言葉に、私はビクッとして振り向いた。目の前には、引っ越し業者の青年がいる。
私は我に返り、頷いた。
「あ、はい。そうです」
「じゃあ新居に向かいますね」
「お願いします。私もすぐ向かいますので」
そう言って、私は空になった部屋を見つめる。
五年間、立ち止まっていた想い。今も忘れることなど出来ない自分がいるが、私も彼のように、新しい場所で心機一転頑張ろうと考えたのだ。
会社は変わらないが、私も係長という役を任されるようにまでなり、ただ仕事をこなすだけの毎日を送っている。五年前、彼と出会う前の、機械的な私に戻っただけのことだ。でもそれは、どこかで寂しく感じる。
同期の裕子は、三年前に結婚退職した。恋愛話一つない私には、会社でお局様のような存在になっているに違いない。
その日、新居に荷物を運び入れ、私は会社へと向かった。
もちろん今日は休みを取っているが、家で読んでおこうと思っていた資料を忘れていたので、取りに行こうと思ったのだ。
「わあ、綺麗な桜。満開ね」
そんな声が、どこからか聞こえた。
会社の横は桜並木で、この季節は観光名所のように人が訪れる。
「あれ、住友さん。今日、引っ越しじゃないの?」
部署に入るなり、部長がそう声を掛けてくる。
「ええ。でも運び込みは済んだんで、ちょっと忘れ物取りに来ただけです」
「忘れ物なんて、大丈夫? これから老いていくだけだよ。オバちゃんまっしぐらだな」
「部長、それってセクハラですよ。それに、どうせ私はもうオバちゃんですから」
部長のチクチクとした言葉には、もうすっかり慣れている。
私は苦笑したまま、自分のデスクから、いくつか資料を取り出した。
「そうだ。休みに悪いんだけど、これ直しておいてくれないかな。もちろん今日じゃなくていいけど、近いうち」
頼みといっても強制的で、すでに部長はファイルを差し出している。
「直しですか?」
ファイルの中を見ると、いくつかデザイン画が入っている。だが、悪いが雑なデザイン画だ。
「今度の新入社員に描かせてみたものなんだけど、ひとつ見繕って直してくれよ。こういう風に描けってね。まったく、専門学校出て学んでいるはずなのに、よくまあ雑にやってくれたよ」
部長に同意し、私は苦笑した。
早く帰って引っ越し後の片付けをしなければならないが、一人じゃそれも気が重いので、私はこの仕事をやってしまおうと思い、椅子に座る。
「じゃあ、やっちゃいますね」
「いいのかい? 引っ越しのほうは」
「ぐちゃぐちゃになってる部屋なんて、見たくないですもん。寝るところさえあれば、今日は乗り切れます。明日も休みなので、後片付けは明日やることにします」
「頑張るねえ。まあ、頼むよ」
部長は自分の席へと戻っていった。
私は新入社員のデザイン画を見つめる。最近の新入社員は、特に代わり映えしない。技術も才能も同じくらいだ。
彼が入ってきた時の新入社員は、みんな性格も良かったし、仕事に熱心だった。そして、まるで彼に触発されたかのように、今では才能を発揮している。他の会社に引き抜かれた子もいるくらいだ。
「はあ……」
私は溜息をついて、デザイン画に新しい線を入れていく。
気がつけば、なんでも彼と結び付けようとしている自分が嫌だ。根暗で、独りよがりで、これっぽっちも変わっていない自分に嫌気が差す。