薄桃色のメモリー
彼のことに限らず、自分から進んで何かを手に入れようとしたことがない。戦ったこともない。それらはいつも後悔しつつも、改善されることはなかった。
「ごめん、裕子。私……帰るね」
突然の行動に、裕子は驚きながらも、私を笑顔で見送ってくれた。
私はそのまま彼の家を訪ねた。
「住友さん……」
彼の家は数日前とは打って変わって、殺風景になっている。
「あ……ごめんね。昨日の休みに業者が入って。ほとんどの物無くしたから、人を呼べる状態じゃないんだけど……」
そう言いながらも、彼はどうぞと招き入れようとしてくれている。
私は首を振って、彼を見つめた。
「あの……こんなこといっても、また困らせるだけだと思う。でも、もう後悔したくないの。最後だから聞いてほしくて……」
玄関口で立ち止まったままの切羽詰まった私に、彼は怪訝な顔で頷く。
「うん……」
「……小四の時、あなたが転校してきた時から好きでした。梶君は私の初恋なの……もう会えないと思ったけど、再会した時、苗字は違ってもすぐわかった。梶君はまた遠くへ行ってしまうけど、もう偶然があるかはわからない。だから伝えさせて」
私は深呼吸して、もう一度口を開いた。
「家族のこと、忘れなくていい。私に背負わせてとも言えない。でも、私はあなたのことが好きだから……何か困ったことがあったり、人恋しくなって、誰かと遊びや飲みたくなったりしたら、声をかけてください。友達同士でもいいから、これからもずっと連絡し合える仲でいたいの」
次の瞬間、私は何がなんだかわからなくなった。
気がつけば、彼に抱きしめられている。壊れるくらい、強く……。
「……僕は家族のことが忘れられないんだ。忘れちゃいけないんだ。新しい恋に踏み切ることも、家族への裏切りだと思ってる。僕は……子供の頃、転校ばかり繰り返していて、人と深く付き合うこともしてこなかったと思う。だから今回も、辛くはないと思ってた。だけどなんでだろう……住友さんに会えないと思うと、寂しい。家族を失った時みたいに、闇に呑まれそうで怖いんだ……」
彼の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
どれだけの我慢を強いられてきたのだろう。どれだけの重みを背負い、どれだけの痛みを、一人で抱えてきたのだろう。
想像すら出来ないほどの絶望を抱えた彼に、ちっぽけな悩みしかない私がしてあげられることはない気がした。
私は同じくらい強い力で彼を抱き返すと、子供のように彼の髪を撫でた。
「好きだ……」
やがて、彼がそう言った。
どのくらいの間、抱き合っていただろう。私たちはもつれるように、気を失うように、玄関先に倒れ込んだ。
「梶君……」
見つめ合う目は、どこか暗く寂しい。まるで彼は、決して許されない罪を、たった一人で背負っているかのようである。
「……やっぱり駄目だ。手放しで君を好きにはなれない。なっちゃいけないんだ」
言い聞かせるように、彼は目を伏せてそう言った。
私は静かに頷き、彼から離れた。
「奥さんはどんな人? 死んじゃっても、好きな人の恋を許せないくらい、嫉妬深い人なのかな……」
ぼそっと言った私に、彼は顔を上げる。
私にとっては、意味のある言葉ではなかった。ただの疑問である。
だが彼には、私の向こうに、生きている奥さんの姿が見えるようだ。
「……そんなことない。きっと笑って祝福してくれる。私のことばかり考えず、幸せになれって。そういうやつだから……」
壁に寄りかかったまま、彼は顔を真っ赤にして泣き崩れた。
彼の奥さんは、きっと素敵な人だったんだろう。明るくて優しくて、誰よりも彼を愛していたんだろう。いつか見た写真からも、そんな人柄が伺えた。
それから私たちは、何をするでもなくそこにいた。
時に手を握り合ったりはしたが、言葉を交わすこともなく、抱き合うこともなく、私たちは玄関先の廊下に座り込んだまま、ただ茫然と朝を迎えるためだけに、そこにいた。
「住友さん……」
いつの間に眠っていたのか、私は彼の声で目が覚めた。
「あ……お、おはよう」
「おはよう」
彼はいつもの笑顔で、私を陽だまりのように包んでくれる。
「いつの間に寝ちゃったんだね……」
「僕も。ごめんね、こんなところに寝かせて……風邪引いてない?」
「うん、平気」
そう言ったものの、喉には痛みがある。でもそれを悟られまいと、私は立ち上がった。
「今日もいい天気」
玄関口に差し込む光に、私は目を細める。
「……今日も仕事だよね」
彼が尋ねた。
彼は昨日で退職したので、もう出勤することはない。
「うん。もう行かなきゃ……」
腕時計を見て、私はそう言った。
「ごめんね……」
「ううん、私のほうこそ。いろいろ……困らせてごめんなさい」
そう言いながら、私は靴を履いた。そして彼を見つめる。
なんだか清々しい気持ちでいっぱいだった。彼に思いを告げたこと、少しは伝わったと実感出来たことが、素直に嬉しい。
「……気を付けて」
「うん。じゃあ、また……」
「うん、また……」
それ以上、何も言うことが出来なかった。
その日の昼、私は裕子にランチを奢りながら、昨日の報告をした。
「へえ。一夜を共にしたと?」
裕子は私の恋バナに、からかうように目を細めて笑う。
「変な言い方しないでよ。何にもしてないんだから」
「何にもしてないほうが変でしょ。でもまあ、奥手なあんたがよくやったよ……よかったね」
「うん」
正直なところ、今後のことは見えない。彼が何を考えているのかも、どうあがいても私を受け入れられないかもしれないことも、まったく見えない。
でも、私は私の恋を今度こそ大事にし、全うすることを決意した。
夕方、私は不安を抱えながらも、もう一度彼の家へ行こうと決める。
それが独りよがりで、嫌われたとしても、会わなければ前へ進めないと思ったのだ。
だがその勇気は、会社を出た途端いらなくなった。
「おつかれさま」
目の前には彼がいる。いつものような、陽だまりの笑顔で――。
「どうして?」
私は思わずそう言って、彼に駆け寄った。
すると、彼は一通の手紙を差し出してきた。
「え?」
「口にするの下手なんだ。だから手紙にしてきた。あとで……僕がいなくなったら読んで」
少し辛そうにしながら、彼はそう言う。
フラれることを予感して、私は小さく頷いた。
「うん……」
「僕、これから九州へ向かうよ。今まで本当にありがとう」
「梶君……」
「たくさん愛をありがとう。僕は……やっぱり亡くなった家族のことが忘れられない」
私は頷くことしか出来ない。
「忘れられないけど、あいつは許してくれると思う……まだ僕の中でケリがつけられない部分があるけど、全部納得して、全部思い出になったら……ちゃんと君に恋してもいいかな?」
プロポーズのように、嬉しい言葉だった。
「お、お願いします……」
私の返事を聞いて彼は微笑むと、そっと私を抱き寄せ、そして離れた。
「心機一転、頑張るよ。落ち着いたら連絡するから……待っててほしい」
私は何度も頷いて、止め処ない涙を拭う。
「待ってる……私もこっちで頑張るから。だから元気でいてね」
「うん。じゃあ、行くよ……」