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薄桃色のメモリー

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 虚ろな目で語る彼の言葉を、私は無言のまま耳を傾ける。
「何もやる気が起きなかったけど、一人でいたら気が狂いそうだったから、休みも取らずに働いたよ。でも周囲の同情の目が辛くて、心無い言葉が怖くて、僕は会社を辞めた……本当は、この家にいるのも辛いんだ。でも、家族で過ごした名残もある。いっそ死にたいと思っていたある日、今の社長が声をかけてくれたんだ。どうやら前の社長が頼み込んでくれたらしい。僕も、新しい会社ならやっていけると思った。僕のことなんか誰も知らない場所なら、うまく……」
 私は思わず、彼の手を握った。
「本当にごめんね。でも、私はこれを知っても何ともならないよ。そりゃあ言葉は悪いけど、可哀想だと思う……でもそれ以上に、私はあなたが好き」
 自然と出てきた言葉だった。私は堰を切ったように言葉を続ける。
「そう、好きなの……今回の仕事が終わったら言おうと思ってた。あなたに家族がいようといなかろうと、好き。でも、あなたが大切にしているものを壊そうとは思わない。あなたが幸せならそれでいいと思った……でももし、あなたが幸せじゃなくて、大きな傷を抱えていて、私なんかでも少しでも力になれるなら……そばに置いてほしいの」
 初めての告白だったが、不思議と言葉がすらすらと出てくる。
 彼は複雑な表情を浮かべ、やがて苦笑した。
「うざいよ」
 その一言で、私は殴られたかのような衝撃を受けた。
「え……」
「うざい。でも……ありがとう」
 真逆の言葉に、私の目から涙が流れた。緊張が少し解れたのだ。
 彼は立ち上がると、私の前に跪き、私の手を取る。
「この半年、僕がこの家に帰っても苦痛じゃなかったのは、社長が飲みに誘って気遣ってくれるのもあったけど、住友さんがいたっていうことは明白だよ」
 その言葉だけで十分だった。
 私は止まらない涙を堪えようと必死だったが、彼に手を握られているので、どうすることも出来ない。
「うっ、ううっ。ごめんね。泣いちゃって、ごめんね……」
 鼻水や涙を流し、私は声にならない声でそう言った。
 彼の顔は、もはや涙で見えなかったが、ぼんやりと微笑んで見える。
「学生時代の恋愛みたいに、なんだかわくわくして楽しかった。でもやっぱり考えてみると、僕は妻も子供も忘れられないし、新しい恋愛に踏み切る勇気もない。住友さんのことは好きだけど、それは友達としてだ。友達にしてはずいぶん助けられたと思うけど、本当に出会えてよかった」
 まるで別れの挨拶のように、彼は話を続ける。
「本当にありがとう……」
「もういいよ……なんか、別れの挨拶みたい……」
 私はやっと彼の手から解放され、涙を拭ってそう言った。
 目の前の彼は、相変わらず複雑な表情を浮かべながら、真っ直ぐに私を捉えている。
「うん。お別れなんだ……来月から、九州に行く」
「えっ」
 またも衝撃の言葉に、私は今度こそ倒れそうになった。
 だが、私の意識を支えるように、彼は口を開く。
「今回の仕事が終わったらって、前々から決めてたんだ。やっぱりこの家が辛くて、どこか新しい土地で働けないかって、社長に相談して見つけたんだ。今度こそ誰も知らない場所、新しい仕事で頑張るつもり……」
「私がいたから? 梶君のこと、少しでも知ってる私がいたから?」
 私の言葉に困ったように、彼は眉を顰める。
「違うよ……でも、住友さんを見てると辛い」
 その言葉の真意もわからず、私は彼の家を後にした。
 そこからの記憶はほとんどない。ショックで何の言葉も出なかった。

 それから月末までの数日間、私たちの生活が変わることはなかった。
 それよりも、組んでいた仕事が終わったため、同じ部署にいても別々の仕事を手がけるようになり、話す機会すらない。もっとも、機会があったとしても、何を話せばいいのか、どんな顔をして会えばいいのか、まったくわからない。

「何があったの?」
 夜、私は久々に裕子と飲んでいた。
 さっきまでうちの部署の連中で、別の店で飲んでいた。彼の送別会である。
 彼は今日で仕事を辞め、数日後には九州へ行くという。小学校の時のように、あまりにも突然で、引き止める関係でもない。きっとこのまま何もしないだろう。
 気落ちしている私を、裕子は心配してくれているが、彼がどんな傷を抱えているかなど言えはしない。
「何って、べつに……」
「べつにじゃないでしょ。そんなに落ち込んでんのに」
「……そりゃあ落ち込むよ。急に遠い所へ行っちゃうし、フラれたし……」
 口を尖らせて言った私に、裕子は目を開かせている。
「へえ。まさかと思ったけど、フラれたんだ。っていうか、告白したんだ。妻子持ちによくやった! 褒めてあげる」
 妻子持ちということを否定はしたくない。彼にとっては、今も大切な家族なのだから。それを忘れてなどとは言えるはずがない。
「ありがとう……でも初めて告白したけど、フラれるって辛いね……」
「何言ってんだか。振るほうはもっと辛いんだからね」
 モテる裕子ならではの言葉だ。羨ましく思える。
「はあ……」
「もう、元気出してよ。どっちみち彼、九州行っちゃうんでしょ? 遠距離なんて続かないよ」
「そうかな。まあでも、私の顔見るの辛いって言われちゃったし。彼にとっていいならよかったって思いたい……」
 それを聞いて、裕子は突然身を乗り出してくる。
「そう言われたの? 顔見るの辛いって?」
「復唱しないでいただきたい……まだ立ち直ってないんだから」
 俯いた私の肩を、裕子が思いっきり叩いた。
「痛い!」
「それ、望みあるかもよ」
「は? 何言ってんの。これだけハッキリとフラれたのに、それでも望み持ってたら、ただのストーカーじゃない」
 私は苛立ってそう言った。
 だが、裕子の顔は輝いている。
「モノによるけど、あんたのケースは望みがある! それに私、男に言ったことあるのよ。あなたの顔見るのが辛いってね」
「ひどい女だね……」
「その先があるの。あなたの顔見るのが辛い、だってこれ以上いたら、あなたのこと好きになりそうだから……」
 裕子が言うと計算高く聞こえ、嘘っぽい。でも、確かに私にも望みが見えた。
「それって……」
「もちろん私は計算して言ったの。相手が妻子持ちで、取引先の重役っていう面倒臭い男だったから。でもあんたの場合は違うでしょ。少なからず、向こうだって好意持ってたと思うし」
「そうかな……」
「少しは自信持たないと、前へは進めないよ。あんた小学校の時だって、彼に行動しなかったんでしょ? もう偶然なんてないかもしれないよ。二度と会えないかもしれないんだよ?」
「……うん」
 励ましてくれる裕子に、私の心は少しずつ動かされていた。
 自信過剰でもいい、もう一度だけ、彼に伝えなければならないことがある。
「あんたが話さないから、彼の家族がどうなってるのかはわからないけど、いくら彼が家族を想って大事にしてたって、彼が拒否ったって、あんたの恋はあんただけのものなんだよ? ちゃんと行動しないと、いつかきっと後悔するから」
 殻が破れた音がした――。
 裕子の言葉に、私は今まで悔いてきた人生を思い出したのだ。
作品名:薄桃色のメモリー 作家名:あいる.華音