永訣の夜に
後篇
次の瞬間、少女が目を開けると、そこは少女の家だった。少女は夢を見ていたかのように、いつものように自分の部屋のベッドに横になっている。少女には、何が起こったのかわからなかった。
少女は静かに起き上がると、窓の外を見つめた。まだ薄暗い早朝である。
「……」
意を決したように、少女は着替えをすると、まだ眠った町へと飛び出していった。
走りながら向かったのは、小高い丘の上にあるマンション群の団地だ。友達も何人か住んでいるので、幼い頃は、よくこの中庭で遊んでいた。
まだ薄暗い非常階段を、少女は駆け上がってゆく。最上階を過ぎ、屋上へ差しかかった階段を、少女は急ぎ足で覗き込んだ。
少年がいるかと思った──。だがそこには、誰もいない。何もない。
静かに笑って、少女は外を見つめた。もうここから飛び降りる気にはなれなかった。薄暗い中で、遠く地面が見える。もう、何も考えられない。
少女はすっかり意気消沈して、ふと空を見上げた。するとそこには綺麗な朝焼けが見える。朝の光に照らされた町が、徐々に目覚めてゆく。
丘の上にそびえる、大きな建物。そこの最上階から、少女は下を見下ろしていた。徐々に、町に人が溢れる。鳥のさえずりがこだまする。遠くで人の声が聞こえる。動き出した生活音が聞こえる。
「おはよう」
「ごはん出来たよ」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「気をつけてね」
朝が明けきるのを、少女はただ呆然と眺めていた。
しばらくして、少女は静かに階段を下りていった。今はもう、死ぬ気もなかったが、生きる気力もなかった。ただ何もしたくなかった。何も考えられなかった。
階段を下りると、少女は夢遊病者のように中庭へと出ていく。見上げると、さっきまでいたはずの階段の最上階の部分が見える。
ふと最上階の踊り場に、人影が見えた。少女はハッとして、階段へと近付いた。すると、マンションの清掃員だということがわかる。少女は中庭へと戻っていった。そしてそのまま、コンクリートの歩道を歩き、そばにあったベンチに座る。
「何してるんだろう。私……」
少女が呟く。
ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。その音に振り向くと、少女は何かに気付いて立ち上がった。少しずつ、それに近付いていく。
そこには、少年が持っていた花束と同じ花が、ひっそりと咲いていた。
「この花……」
改めて観察するように、少女がその花を見つめる。しかし、あまり見たことがない花だった。白い花びらが、下を向いて咲いている。
その時、突風が少女を襲った。思わず地面に手を着く。耳元で風が鳴った。少女はそっとその花を摘むと、静かにその場を去っていった。
「どこに行ってたの!」
家に帰るなり、少女は母親に怒鳴られた。母親は涙目になっている。その顔に少女も涙ぐんだ。
「ごめんなさい……」
「もう、心配したじゃないの!」
母親はそう言って、少女を抱きしめる。その温もりに涙を流し、少女はもう一度言った。
「ごめんなさい……」
少女は母親に手を引かれ、家の中へと入っていった。
リビングに行くと、少女は椅子に座らされる。母親は手際よく温かい紅茶を入れて、少女に差し出した。
「無事でよかった……」
独り言のように、母親が静かにそう言った。そんな母親を少女が見上げる。母親は優しい瞳で、少女を見つめている。
「その花、どうしたの?」
少女が握りしめている花を見て、母親が尋ねた。
「ちょっと……綺麗だったから……」
俯いたまま少女が言った。
「スノードロップね。もうすぐ春なのね」
母親の言葉に、少女が顔を上げる。
「スノードロップ……?」
「そうよ。結構この辺りでも、育ててる人多いでしょう」
少女は母親を見つめた。母親は尚も優しい瞳で少女を見つめている。少女は俯き、押し黙った。
「……学校に行きたくないなら、それでいいわよ」
その時、母親がそう言った。
「私たちはね、あなたが生きていてさえくれれば、それでいいのよ」
少女は俯いた。胸を揺さぶるような衝撃があった。しかし何かが物足りない気がした。そんな風に思う自分が、不甲斐ないとも思う。母親の言葉は暖かく感じる。幸せだと思った。しかし少女は虚ろな瞳で、摘んできた花をただ見つめていた。心に大きな穴が開いたように、凍りつくような寒さが少女を襲う。
「……お腹空いたでしょう? 今、作るからね」
母親は妙に気を使った素振りで立ち上がり、台所へと向かっていった。
少女はリビングの椅子に座りながら、ふとテレビをつける。しかしそれを眺めているだけで、何も考えてはいない。思い出すことといえば、妙にリアルだった夢。今でも思い出すと、胸の鼓動は早くなる。
ふと立ち上がり、少女は握り締めていた白い花・スノードロップを持って、母親のもとへ向かった。
「ああ、花瓶ね」
察して母親が一輪差しの花瓶を差し出した。少女はそれを受け取ると、リビングのテーブルに花を飾った。まるでこの家の象徴のように、部屋の真ん中で花は美しく輝いて見える。
「花壇一杯のスノードロップが咲きました」
その時、テレビからそんな声が聞こえ、少女はふとテレビを見つめた。
「下を向いている花びらが特徴的な、この花の名前はスノードロップ。別名、天使の贈り物とも呼ばれていて、春の訪れを告げてくれる花です」
キャスターがそう言って、植物園の花壇を紹介している。
「このスノードロップ。アダムとイヴが楽園を追い出された時、二人が寒くて困っていたところに天使がやってきて、雪を花に変えたという謂れがあるそうなんですよ。この花を見ると、幸せになれるということですので、ぜひ皆さんも見に来てくださいね」
テレビの画面には、花壇一杯のスノードロップが映し出されている。少女はただ、その光景を見つめていた。
そんな中で、キャスターは尚も花の紹介を続けている。
「ちなみに、このスノードロップの花言葉は“希望”。見ていると希望が溢れるような、そんな花に見えますよね。ではスタジオにお返しします」
キャスターの言葉を聞いて、少女はハッとした。希望……確か、夢の少年が言っていた。希望を見つけたのだと――。
少女は目の前にある一輪の花を見つめた。少女の中に、何かが燃え始めた気がした。
「お母さん……」
突然、少女がそう呼んだ。母親は出来上がったばかりの料理を差し出し、少女の顔を覗き込む。
「なあに?」
「……私、明日から、学校行くね……」
少女の言葉に、母親は驚いた。
「でも、無理しなくても……」
「ううん、行く。無理してでも……行かなきゃいけないような気がするんだ」
そう言った少女を、母親が涙ぐんで抱きしめた。少女の目からも涙が溢れる。
少女は何不自由なく育った。家庭も円満で、寂しい思いなどしたこともない。しかし小学生の頃から、小さないじめが学校で行われていた。からかわれたり仲間外れにされたりが、日常的に行われていた。
少女自身、その対象だった。成績もスポーツも並程度で、もたもたとした性格から次第に同級生から疎まれる存在となっていたのを、少女自身が感じていた。無視されることはしょっちゅうだった。その頃からすでに、少女は不登校気味になっていた。