永訣の夜に
中学生になって、それもエスカレートする。言葉の暴力もあった。ただ端から見れば、少女の悩みも小さなことなのかもしれない。それでも少女は、もう耐えられなかった。
「希望……」
少女が呟いた。母親は意味がわからないながらも、少女を抱きしめることをやめない。
母親は、少女から悩みを打ち明けられたことがあった。しかし正論を言うだけで、今は様子を見ようと思っていた。そんな中、少女が突然姿を消したことで、母親は不安に煽られた。触れれば倒れそうなくらい、母親の姿は小さく見えた。
そんな母親の腕の中で、少女は生きようと決意していた。目を閉じれば、重くなる心を抱えている。一人になれば、不安で心が押し潰されそうになる。けれど少女は、もう一度生きてみようと思った。
それは、妙に残った夢のせい──。なにかが少女の心の芯を強く受け止め、支えようとしていた。
次の日。少女は不安げな母親が見送る中で、学校へと向かっていった。
「うわ、来たよ。ずっと来なきゃいいのに……」
ひそひそと同級生の声が聞こえる。少女は無意識に耳を塞ごうとする。けれど心の中で、何かが熱く燃え出した気がした。心の奥の炎は、少女が逃げようとするたびに、どんどん熱くなってゆく。
「生きてたんだ」
その声に、少女の中で何かがパチンと音を立て、少女を暖かく包んだ。
「生きてたよ……これからも、生きてくから」
少女が静かにそう言った。揺るぎない声だった。
「はあ? あんた、何もわかってないわね。死んだほうが楽なのに」
そう言った同級生も、少女に食ってかかる。
「……生きてて楽しいことも、たくさんあるはずだから。それを知らずに、私、死ねない。いじめるなら勝手にやればいい。そんなことしか楽しみがないなら、私が相手してあげる……でも、私は死なないから。生きてくから」
少女はそう言って微笑んだ。その顔は、自信に溢れた強い笑顔だった。
「……好きにすれば?」
対立していた同級生が、そう言って去ってゆく。
少女の中には、小さな白い花が咲いていた。希望という、真っ白な花が――。
その日から、少女は毎日学校へ行った。やがて、続いていたいじめもなくなっていった。強い少女には用がないといった様子で、対立していた同級生たちはおとなしくしている。少女も次第に、笑顔を取り戻していった。いじめられる前の、少女に戻ったように──。
三年後。少女が少女らしい人生を取り戻したある日、少女はあの丘の上のマンション群の団地へと向かっていった。手にはたくさんの、スノードロップの花が抱えられている。
いつか夢の中で、短い人生を終わりにしようと上った階段が、今日は生き生きとした強い表情であった。
最上階の階段から、少女は町を見下ろす。移りゆく時間が心地良かった。
陽に照らされた町、夕日が影を落とす町、月明かりに満ちる町――。少女は時間を忘れて、その風景を見つめていた。
その時、誰かが階段を上ってくる気配を感じた。足音が聞こえる。少女は少し固まるが、そこから動くlことが出来ず、その足音の主が来るのを待った。
すると、顔が見えた。中学生くらいだろうか。まだあどけなさが残る、見知らぬ少年だった。
少年は思い詰めた顔をしていながらも、決意に満ちた表情だ。少年はその場に立ち止まったまま、動こうとしない。少女は、じっとその少年を見つめていた。
やがて少女は、持っていた花束を解き、その場から外へと投げ落とした。いつか見た、忘れられぬあの少年が見せた行為が、今の少女にはわかる。希望という名の白い花が、地面へ向かって落ちてゆく。
これは、あの時死んだ自分へのはなむけ。生まれ変わった自分への証。そして二度と、昔の自分と同じような人が現れないように祈る、願い――。
落ちてゆく花を見つめていたのは、少女だけではない。ここにいる名も知らぬ少年もまた、ただ黙って見ていた。
「……君も死ぬ気なの?」
やがて、少女がそう尋ねた。その問いかけに、少年は静かに頷く。そう、これはいつかの……現実。
「死んだら駄目だよ。君に死ぬ権利なんかない」
続けて言った少女に、少年は口を結び、静かに少女を睨む。
「あるよ」
少年が、初めて口を利いた。
「ないよ」
少女は、きっぱりと否定する。
「ある!」
二人は、睨み合いになった。
「……いじめられてるんだ。もう生きたくない……希望なんて、なんにも見えない……」
やがて少年がそう言った。少年はもう一度、遠い地面を見つめた。その瞳には、落ちた白い花、スノードロップが微かに闇夜に浮かんで見える。
「……私もいじめの加害者よ。結局、何も出来なかったのだから。だけど、私は見つけることが出来たんだ……」
少女の言葉の続きを求めて、少年は少女を見つめた。少女が、笑った。
「希望……を」
その時、突風が吹き抜けた。ざあっと、木々がざわめく音が聞こえた。