七変化遁走曲
現在地は、戻って薊堂事務室。定位置の来客ソファに腰を落ち着けて、あたしはこっそり常葉の表情を伺っていた。
雑務係は此処に戻ってから始終難しい顔で、机の端に載せた和綴じ本を眺めている。ううん、正しくは、あの険しい顔は深砂鷺を出る前からずっと続いている。紺屋さんに本を預けられて依頼を承諾してから、もっと言うと、古本屋主人から電話を貰ってから続いているような気がする。
とはいえ、その小難しさ度合いは少しずつ増しているのだけれど。
彼は本を眺める。文字通り眺めるだけだった。頁を開くこともせず、単に寒色の表紙を睨んでいる。時折手を伸ばしかけ、思い直しては腕を下ろす。
それならあたしが中身を確かめてあげようか、冗談めかして言ってもいいのだけれど、何よりあの眉間の具合ではそれも憚られる。だから柄にもなく煎茶を淹れてみたりして。
「難しい仕事なの?」
テーブルにお茶を出しながら、何気なく尋ねてみる。常葉はありがとうと答えながら湯のみを拾った。
「うーん。仕事というか、仕事相手がね」
ずず、とお茶で喉を潤してから小さく息を吐いた。僅かに回復したらしく口調が上向きに修正される。
「少なくとも、社長にも出てもらわなきゃいけない程度には難しいひとだよ。付き合いはあまり深くないんだけど、やっぱり気後れするというか」
「まさかまたあたしを置き去りにするつもりじゃないでしょうね」
先制して釘を刺しておく。すると彼は軽く肩を竦めて、まさか、と首を振った。
「できればそうしたいけど、今回ばかりはね」
何度目かの重い溜息を吐きながら。
この辺りは成長しているな、と、あたしは勝手に感心する。
少し前の彼なら――といってもひと月やそこらしか前ではないのだけれど――問答無用で留守番を言い付かっていたはずだ。いや、何も言わないで勝手に仕事に出ていたかもしれない。半人前のあたしが足を引っ張るのは目に見えたことだけれど、だからといって知らないところで切り捨てられているのはやっぱり気分が落ち込む。まして、たった十数年しか生きていないひ弱な人間なんて彼には枷でしかないのかもしれない。
でも、まぁ、口先だけだったら言い負かす自信はある。
「それで?」
あたしは先手を打って話題を進めた。
「いつその『依頼主』を訪ねるの? 少しでも早いほうがいいんじゃない?」
「そうしたいのは山々だけど、でもね」
「伸ばしても良いことなんてないわよ。なんたって、あたしは土日しか休みじゃないんだから」
呆気にとられている顔つきはこの際無視だ。胸を張るようにして些か背筋を伸ばす。座っている彼はもちろんあたしより視線が低く、見上げるようにしてこちらを見詰めている。なるほど、これは普段と正反対で気分がいい。
暫くの間、常葉は目を丸くしていたけれど、あたしがそれ以上何も言わないのを見て表情を緩めた。敵わないと思われたのなら本望だ。
「分かったよ。じゃあ、支度をしたら直ぐに出ましょう。浅見社長」
ちょっとだけ苦笑の混じった表情は、単純に呆れているだけかもしれないけれど。