七変化遁走曲
庭が一望できる縁側に通される。雨戸を外した軒先には軽やかな涼風が吹き抜けていた。先刻抜けてきた道は表のようだけれど、どうもこの家は裏が店の正面になっているらしい。なるほど、表を抜けてくるのでは店まで随分時間がかかる。その代わり、裏は道路にも近く、いくらか入って来易い。いずれにせよ、ここが一般的に言われるリサイクルショップとしての古本屋と異なるのは明らかだけれど。
版画絵から和綴じの写本まで手に入るような、正真正銘古い本を扱う店。それを証明するように、廊下から座敷まであちこちに積み上げられる本の山。これで何処に何があるのか分かっているのだろうか。
編み込まれた籐の机には緑茶が三つ。二つは円卓のこちら側で、もうひとつは店の主人の前に添えられている。
所在無げ、というのはこういう状態のことを言うのだろう。三人のうち二人は面識があって、一人はこの場所を訪れるのすら初めて。物珍しさも加わって見渡したいのを堪え、じっと店主の穏やかな表情を見返した。
「実はね、ある人の依頼を受けて欲しいんです」
紺屋さんの切り出しに対し常葉は、ある人、と疑わしげに復唱する。彼の視線の意味を無視して、店主はのんびりと頷き返す。
「夏を前に探しているものがあるらしい。そろそろ蛙の騒ぐ季節だからね」
あたしはとっさに耳を欹てた。この家にも庭に小さな池があるけれど、残念ながら蛙の大合唱を聞くことはできなかった。
代わりにさわさわと躑躅の花が揺れる。桜の葉の影が踏み板に注がれる。
「もしかして、依頼主というのは」
常葉の声に意識を戻す。苦虫を噛みつぶしたような表情が少しだけ平坦に戻っている。――いや、むしろ、神妙な顔つきになっているような。
彼は紺屋さんへ向けて、真っ直ぐに指を伸ばした。正しくは、彼の背後へと。
「『それ』ですか」
示した先には一冊の本がある。古本屋らしい和綴じの本だ。大学ノートを一回り大きくしたくらいの、ページの厚さは二センチほどだろうか。日に焼けていくらか色の褪せた、灰青色の表紙には文字。相変わらずあたしには解読できない程度の草書体だった。
「ご明察」
置き去りの薊堂店主を余所に、二人ばかりが着々話を進めている。思わず声をあげそうになったけれど、常葉の眉間になんとも苦そうな皺が刻まれているのを見て押し黙る。
「断ることは……出来そうにないね」
口から零れる重たげな溜息。それは諦めなのか呆れなのか、それとも苦笑か。確認というよりは自分へ言い聞かせたかのように視線が低い。
対して、紺屋さんは満面の笑み。
「そうだね。他あらぬ女神の依頼ですから」
いつの間にか手元に引き寄せていたその本を、すっとこちらに向けて差し伸べた。近くなる灰青の表紙、いや、日陰に晒されてその色は濃灰の青に変わっている。
どうするのだろう。
見守るあたしの心配は、すぐに掻き消された。一瞬だけ常葉の視線があたしに向けられる。何かを問われている心地がして、静かに首を縦に振る。
「……分かりました。承ります」
その返答は一体誰に対したものだったのか。ともあれ彼はその本へと指をかけた。
日差しから遠のいた濃灰青は、更に色を深くした。