七変化遁走曲
「――惜しかったね」
閑散としたホームの端っこで、励ますように常葉が呟く。
接続駅の最西端、下り行き。改札から近いホームにはしきりに列車が入ってくるのに、あたしたちの立ち尽くすそこはというと、1時間に数本電車が行き来すればいいほうだ。
しかもそのうちの、目的としている駅へ向かう電車はわずか2時間に一本。何が惜しいのかというと、次の電車が来るのが1時間55分後だということだ。
あと10分、いや、5分でも早く薊堂を出て、でなければ交差点の信号に引っかからなければ、途中で菓子折りを購入しなければ間に合ったのかもしれない。あの時釣銭をばら撒いていなければ、あるいは。
「仕方ないね」
「……ごめん」
責められている気分がして、だらりと頭を下げる。彼は変わらずに涼しい顔をしていたけれど、今はそれが余計突き刺さった。
ああ、どうしよう。やはり明日出直したほうがいいんだろうか。それとも少し奮発してタクシーを使用するとか……一人逡巡していると、ふっと足元に影が落ちた。見上げれば既に常葉は背を向けている。
「さて、行こうか」
「え? どこに?」
反射的に聞き返す、その横顔が不敵に笑う。
「どこにって、勿論依頼主のところだよ」
言いながら彼はホームから離れていく。先刻降りてきたばかりの階段を振り返ることもなく上っていってしまった。あたしは幾許かぼんやり見ていたけれど、置いていかれかけていることに気付き慌てて走り出した。
人混みをするすると抜けていく、その背中をなんとか見据える。常葉は誰ともぶつかることなく先へと進んでいってしまう。なんとか傍につくことができた頃には、あたしたちは揃って改札口を出てしまっていた。
もしかして、やはりタクシーを使うんだろうか。詳しい所在地を聞いていないけれど、片道どれくらいかかるのだろうか。あたしの困惑に気付くこともなく、常葉はロータリーを横切り生垣を越え、何故か芝生の上を歩いていく。そうしてやっと、桜の木の下まで辿り着いたところでぴたりと足を止めた。
ベンチひとつないその広場には他にひと気もない。人工的な茂みや低木で駅側からも街側からも死角になった空間には、野鳥の声すら響いていない。遠巻きに車の走る音が聞こえてくるだけだった。
また距離を離されてしまっていたあたしは、早足で不安定になった呼吸を落ち着かせながら、どうしたの、と見上げる。
常葉の顔に木漏れ日が落ちている。晩春の日差しを遮る陰は少し薄いけれど、彼の感情を打ち消してしまう程には翳っている。
「お願いがあるんだけど、翠仙」
名前を呼ばれて、更に桜の木のほうへ近づいた。改めて見上げる。常葉が、肩に手を添えて内緒話をするように覗き込んでくる。
「なに?」
「少しの間、目を閉じて貰えるかな」
「目?」
意味は取りかねたものの、素直に目を閉じてみる。多分、効果音をつけるなら、ひょい、といった感じ。日陰の目蓋の裏は太陽の気配もしない位に暗い。
曖昧な沈黙。肩に置かれた手が僅かに戸惑ったのを感じた。それから何故か、へぇ、と感嘆の声。それがちょっと気に障ったので、つい悪態をつく。
「何よ」
「いや。ただ――蒼いなと思って」
何の話だと目を開けようとした刹那、轟と風の音がする。眩暈?それとも、地震?
ふわり、一瞬足元が定まらなくなって、とっさに常葉の腕にすがる。慌てて目を開いて、あたしは更に驚くことになる。
「――え?」
目が乾いているわけでもないのに、何度となく瞬きを繰り返す。
おかしいのはあたしの居る場所だ。数秒前までは駅の広場の桜の下に居たはず、なのに。
駅であることには変わりない。ただし桜も広場も無く、そればかりかロータリーも駅も様変わりしている。どこか余所の、木造の小ぢんまりした駅。駅名のプラカードが出ているので駅であることは間違いなさそうだ。複数階建ての接続駅としての賑わいはない。改札の代わりに簡易読取機の設営されたその駅には人の気配も感じられない。無人駅なのかもしれなかった。
「今、何したの?」
怒るのも忘れて、その琥珀色を見上げる。駅が移動したとは考えられないから、あたしたちが移動したとしか思えない。けれど、時間の経過は全くと言っていいほど体感していない。自分が気を失ったつもりもなかった。それなら残されたのは、『何か』をしたのなら傍らの彼ということになる。
あたしの視線を下方から受けながら、彼は澄ました顔で口角を上げた。
「何って。僕は狐だよ」
駅の向こう側は深い山。かすかに蛙の鳴き声。どうやらあたしたちは一瞬で目的地までやってきたらしい。
空は薄青い。生い茂った竹林が初夏の風に吹かれ、さらさら音を立てた。