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七変化遁走曲

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「私のことはいいでしょう。それよりも、彼女のことです」
 お茶とお菓子を運んで、揃って畳の客間へ通される。床の間に飾られた夏椿、開け放たれた窓から通り抜ける爽やかな風。
 座布団に両足を乗せて一呼吸の間のあと、常葉は持参した一冊の本を彼へ差し出した。元々は紺屋さんから預かった、そして、陽花さんの依頼を受けるきっかけになった和綴じ本だ。
「お疲れ様でした。翠仙さんも活躍されたと聞きました」
 帰ってきた本を、紺屋さんは両手を使って丁寧に受け取る。いつの間にかその表紙の色もまたあの花瓶のように淡い紅色に染まっている。
 まるでアジサイの花みたいだわ。春の終わりから夏の始まりにかけての移り変わり。青から赤へ。もしかしたらその前は何色にもならない白だったのかもしれない。
 無意識に見詰めてしまっているのに気づいたときはもう遅く、わずかに視線を上げれば、紺屋さんのそれに迎えられた。

「これは季節です。巡りゆくもの、巡りくるもの。一所に留まることを知らない、季節そのもの」
 ぱらぱらと捲るその頁の端々には書き連ねられた文字や言葉、挿絵が窺い見れる。けれど一度手を止めれば、どこを開いても真っ白な頁しか見つけられない。
「季節」
 あたしは復唱する。移り変わる間だけ強く感じることの出来る、日本の四季そのもの。紺屋さんがはい、と頷いて、神妙な面持ちでその表を撫でた。
「もう次の行き先が決まっています。巡るなかで、いつかまた私達のもとへやってくるかもしれない」
「もしかして、陽花さんの元へ行けたのは……」
 小さく上下した喉元は、肯定を示すのだと分かった。
「彼女も、また巡る季節の側に身を置くから。この本が彼女の元へ導いてくれる」
 ふと振り返る窓の外は、既に夏の花で彩られている。それは薊堂の小さな庭も同じだった。此処はあちらよりも顕著に、春や夏の気配を繊細に映していた。咲き誇る百合、木槿。けれど彼女の屋敷に咲くのは紫陽花ばかり。雨を待ち、青々とした株から色を変えていく紫陽花の花弁。蛙の声。
 まるで置き去りにされたように、あの場所は梅雨の景色だけを切り取っていた。
「じゃあ、もう会えませんか」
「いいえ。季節が巡れば、また雨の季節が来るでしょう」
 その微笑に僅かながらも安心を貰う。

「もう夏が来る。夏と梅雨は長いこと一緒にはいられない」
 呟いたのは常葉だった。表情から感情は読み取れなかった。その瞳は窓外の景色に向けられていて、それでもあたしには、彼がどこか青空よりも遠い彼方を見詰めているように見えた。

「けれど、私達も立ち止まってはいられないでしょう。ヒトはヒトとして、祀る者の使命を果たさなければ」
 彼女は今も、あの屋敷でひとり愛するひとを待っている。必ず会いに行くと交わした約束を、あたしまで破るなんて絶対にしたくない。
 大丈夫。地図なんてなくても、きっとたどり着ける。来年の初夏にはケーキとくず原の和菓子を持って遊びに行こう。彼女の自慢の紫陽花をゆっくり見せてもらおう。
 柱時計が悠然と三時を告げる。冷茶の中で待ち侘びたように、からんと氷が音を立てた。
作品名:七変化遁走曲 作家名:篠宮あさと