七変化遁走曲
「みをつくし恋ふるしるしにここまでも、めぐり逢ひける縁は深しな」
ふいに聞こえたフレーズに既視感を覚える。音程のニュアンスまで、どこかで聞いたことのある柔らかさ。まるで彼女自身、何度もそれを聞いたことがあるように、正確に『彼』の癖を模倣していた。
「この歌を君恋池の畔で口ずさんだと聞いて、相変わらず狡いひとだと思ったの」
陽花さんは立ち上がって、開け放した掃き出し窓から庭へと下りた。玉砂利を踏むその裸足がとても白く美しく見えた。
彼女の行く先を見て、いつしか池に水が戻っていることに気が付いた。蓮の花も、葦の影も。水面下に揺れる赤い陰影さえ、ずっとそこにあったように瑞々しく輝いている。
やがて池の縁で立ち止まり、そっと身を屈める。その手には、桐箱から持ち出した練桜の朝顔。それを静かに池に沈めて、細首の一輪挿しに並々と水を満たした。その様子をあたし達は黙ったまま見詰める。
「答えは正解だけれど。ひとつだけ間違いがあるわ」
花瓶の縁からぽたりぽたりと水が零れている。水面に波紋を描いては、どんどんと広がっていく。
「これはね、花瓶ではなくて、水差し。正真正銘のハイドランジアよ」
振り返った表情は、どこか神妙で。
口元に浮かべられた微笑。視線が合う。それを合図にしたように、花瓶をゆっくりと返した。さらさらと流れ出る透明な水。それを受け止めるように左手を空に向けて広げる。指の間から逃げるように、水は池へと帰っていく。
さらさらと。
最後の一滴まで。
そうして彼女の掌には、一連の花弁が残った。
紫陽花の花だった。
花瓶と同じ色の、赤紫の紫陽花の花。いつの間にか花瓶は元の薄藍色に戻っている。池を囲む紫陽花の花もまた、心が締め付けられるような薄紅色をしていた。
陽花さんはその花弁を乗せたまま、掌をゆっくりと握り込んだ。左手の上に右手を重ねるように、その花弁を愛しむように、胸の前に引き寄せる。
耳を澄ましているのだと、閉ざされた瞳に知る。つられる様に意識を集中させるけれど、あたしには何の音も聞こえない。聞こえるのは蛙の鳴き声と、霧雨に揺れる紫陽花の葉の音。
彼女の背中が、露を纏って仄白く光っているように見えた気がした。
その表情を窺おうとして、息を呑む。
目の端から頬に伝う、一滴の流れ。
それを目にした途端、何故だかあたしは、ある男性の横顔を思い浮かべた。
反射的に腰を浮かせる。声をかけようとした、あたしの袖を引く腕があった。どうして、と問い詰めるために見つめ返した先には、黙ったまま首を横に振る常葉の目。
やがて零れた声に、また我に返って視線を戻した。
「ありがとう、翠仙、常葉」