七変化遁走曲
「橘諸兄の紫陽花の歌は、第20巻の 4448番。そして、朝顔というのは源氏物語の第二十帖の通称です」
これを見ただけで、あたしたちが辿り着いた訳を理解できる人は世の中に如何程いるのだろう。薊堂の優秀な社員でさえ一度は素通りしてしまったもの。けれど目の前の彼女はそれを教える数少ない人なのだ。
「決め手は他にもありました。たとえば、伝えるってことは、発する側と、受け取る側があるってこと。何かと何かを結び付けなきゃいけないんじゃないかと私達は考えました。だから今回は、二つのアジサイの歌を繋ぐんじゃないかって。それで、見つけたのが橘と八重。二つから連想できる言葉が、『左近の橘』『八重桜』、つまり『桜』」
空っぽのはずの池のどこかで、ころころと蛙が鳴く。
流水の香りは、鯉の跳ねる音はどこからするのか。
「次は、もう一つのアジサイの歌です。この歌には、既に諸弟って言葉があって引っかかってました。それが対になっているという意味では、『右近の桜』を連想するのに余計確信があった。あとは練の字くらいしか印象強いものが残ってなくて。それで、書付を眺めていたら練桜という名前を見つけました。練桜の焼印が入った作品は三つ。うち『水の容器』と呼べるものは花瓶と茶壺。だけど、二十から辿れば朝顔だけが残る。だから本当は、あたしが朝顔に辿り着いたのは一番後だったんです」
陽花さんは始終黙ったままだった。静かに頷きを重ねて、時折相槌の代わりに微笑みを強める。
いつしか霧雨が雨へと変わっていた。透明な粒が紫陽花の葉を撫でる。遠かった蝉の騒めきは、すっかり蛙の歌声にかき消されている。
「そうして、確信しました。うちで預かっていた作品のひとつは事務所に置いていたんです」
その言葉を待っていたように、陽花さんが箱の中身を持ち上げた。広げられた袱紗。テーブルの中央に、細首の花瓶が現れる。
事務室にあったはずの花瓶。毎日のように目にしていたはずの。けれど透明な藍色の釉薬の姿は、そこにはない。
あるのは、赤紫の美しい反射。
書付には藍色と書いてあった。実際にあたしたちが見た花瓶は藍色だった。その色が、いつの間にか変わっていたのだ。
まるでそう、アジサイの花が次第に青から赤へ変わっていくみたいに。
「これが、貴女の探していたもの。――いいえ。正しくは、手がかりですね」