七変化遁走曲
6.夏と言伝
渡り廊下から見た風景は、やはり前に見たものとは決定的に違っていた。
まるで池の上に屋敷があるんじゃないかと錯覚するほどの広い池。それが今は池底に僅かに水が残っているだけで、悠然と泳いでいた鯉の影も蛙の鳴き声も、今は注意しても見つけることはできない。
あの池の住人達は何処へ行ってしまったんだろう。この池はどうしてこんな風に姿を変えてしまったんだろう。尋ねたいことはたくさんあったけれど、この屋敷の主の憂いを帯びた横顔に、あたしはかける言葉も探せずにいた。
よく磨かれた板の上を横切り、月見窓のある和室に通される。畳張りなのにオリエンタルな八角机と細身の椅子。日差しを遮るカーテンは薄いレースで、開け放たれた窓にかかって風に揺れていた。
囲むように座るテーブル。そこには既にお茶の用意が揃っていて、白磁の茶器の中には花茶の蕾がころりと座っていた。
「陽花さんが探していたのは、この花瓶で合っていますね」
真っ先に口を開いたのは、薊堂の社長見習い、責任者であるあたし。袱紗と桐箱で大切に抱えてきたそれを、するすると解いて行く。桐の蓋を開けて、上から内側を覗く。
今朝まで薊堂の事務室でひっそりと彩を添えていた花瓶だった。
書架の横の飾り棚に置いてあった、陶器製の花瓶。あまり大きくないけれど、全体を覆う釉薬がとても綺麗だったのを覚えている。
あたしは言葉を切って、陽花さんの返答を待った。あたし達はこれだと勝手に思っているけれど、その上確信めいたものも持っていたけれど、やはり本人の答えを待つまで、安心することは出来なかった。
陽花さんは黙ったままその花瓶を見つめた。視線で歪んでしまうんじゃないかと思うくらい。それからその真っ白な指がテーブルの中心に伸びて、静かに腰を据えるそれへ、そっと指先を触れさせた。
「そうよ」
彼女が頷く。殺していた息をやっと吐き出した。それにならってあたしも、強張っていた肩を下した。
「そうですか……良かった」
良かった。合っていた。あたしが昨日思いついたものは、戯言なんかじゃなかった。橘、アジサイ、私から彼へ。その答え合わせを、あたしは不躾かと躊躇いながら始める。
「実を言うと、今回は最後の最後まで悩みました。けれど、私達は改めて貴女の言葉の意味を考え直してみたんです」
これに辿り着くまでは随分曲折した。掛け軸だと思い込んだり、二つの焼物を見比べたり。けれど本物は、ずっと事務室にあった。毎日のように眺めていたのに、あたしたちは気づくことが出来なかった。
「陽花さんはこう言いました。『私を探して、彼へ伝えて』」
電話口で聞いた彼女の言葉を厳密に反芻する。こうすると少し、今まで考えていたニュアンスとは違う気がする。思い込んでいた。彼へ伝えるのは伝言じゃなくて、そこに『私』が居ることを伝える、といったように。
「それから、万葉集の中の、アジサイの二つの歌。女性視点の二つ目の方には橘と八重のヒント。もう片方の歌は男性の視点。つまり、この膨大な歌の中から、私の居場所を伝えるって意味にすると、たどり着いたのがこれでした」
左隣に座った助手へ目くばせする。彼は黙ったままテーブルの上に四つ折りの紙片を取り出した。
折り目を広げながら、丁寧に開いていく。
少し色褪せた、なめらかな和紙の表面に筆書きの文字がつらつらと並ぶ。その中程。他より一層強調した太い草書体。
『練桜 色絵淡蔦細首花瓶 朝顔』
着物姿の彼女が、ふわりと微笑む。