七変化遁走曲
「そういえば、香介くんが萬葉集の訳文篇本を探しに来ました。もしかして陽花さんのご依頼ですかね」
一瞬、香介って誰だっけ、と考えかけてこっそり笑った。そうか、うちの常葉はそんな名前だったっけ。何度耳にしても慣れないものだわ。
そんなことは置いておいて、今は陽花さんの話だ。いくら紺屋さん経由の依頼だったとしてもどこまで説明していいのか判断がつかない。とりあえず掻い摘んで、現在どのような状態なのかを説明する。
「紫陽花の歌、か。萬葉集に四千五百首以上にわたって歌が集められています。その中から特定の歌を探すのは大変ですよ」
「そうです、よね」
同情を交えて微笑む目元につられて、賛同の溜息を零す。あたしが手に取ったのは現代語訳と注釈のついた初心者向けのものだったけれど、それにしたってずしりと重いハードカバー、ぺらぺらと捲るページには幾つも幾つも詩が並んでいた。
堪らずにひっくり返した最後のページの通し番号は四千五百十六、いや、四千五百十七だったろうか。これはどう考えても文明の利器に頼った方が効率的だと本を閉じたのは、わずか一時間前の出来事だった。
まさかとは思うけれど、常葉はあの四千五百十六首を全て目に通している最中ということはない……よね?
……ないと思うんだけど。
「そろそろじゃない?」
心中言葉にならない焦燥に駆られていると、紺屋さんが電光掲示板を眺めながら首を傾げた。てっきり電車の時間かと思って視線を追うのに、到着予定時刻まであと十分はある。
「何がですか?」
仕方なく問い返せばじっと窺う眼差し。彼は充分な間を取ってから、妖艶に口角を綻ばせた。
「かかってくるでしょう。電話が」
誰から、と考える間もなく、鞄のどこからか振動が伝わってくる。きっと外側のポケットだ。あたしはいつもそこに携帯電話を入れているから。ファスナーを引き開けると、薄暗い布地の間で淡い色の光が点滅している。
開いた液晶画面には、薊堂の二文字。
「――もしもし」
『翠仙?』
あたしの携帯電話にかけてきたのに電話の相手を確認するのは、いつまでも常葉のクセだ。だからあたしも、いつも通り構わずに要件を尋ねる。でも今回だけは、思わず常葉の名前を確認してしまった。
だって、まさか、このタイミングでかかってくるとは思わなかったから。
まるで紺屋さんの声を合図にしたみたいに。
「常葉……?」
『連絡取れなくってごめん。でも紫陽花の歌、探したよ』
とっさに紺屋さんを振り返る。彼はさっきのまま穏やかな表情で、流し目を寄越して。
そして、まるで計ったようにその言葉を被せてきた。
「紫陽花の歌は、二首しかないはずです」
『紫陽花を読んだ歌は、二首しかなかったよ』
常葉の声なんて聞こえているはずもないのに、彼よりも僅かに早いタイミングで、同じ答えを呟く。
どうして。
口にすることをためらったまま、その眼差しを黙って受け止めていた。