七変化遁走曲
薊堂から駅までは十分、そこから高校の最寄の駅までは十五分。校門までの徒歩の時間を含めても、片道大体三十分のそれほど近くも遠くもない距離。落ち着いて座っていることも出来ないので車内勉強までは出来ないけれど、その代わり転寝して乗り過ごすこともない適度な道程だった。
けれど今日は、その三十分に焦りを感じる。結局駅までの十分じゃ足りなくて、今は比較的空きのある入口付近の手擦りに掴まって『打ち合わせ』を続けていた。
通勤ラッシュより少し早いので、揉みくちゃにされる心配はない。けれど、隣の人の肩が近い程度には混んでいるので、今は常葉と二人向き合って窓際に立っている。
これはいよいよ早く話題を完結させて帰さないと、あたしが教室に着く頃にはこの間以上の好奇の眼差しが待っているに違いない。なんだかカップル風味の男女がこうして話しているのをよく見るわね、とかぼんやり考えて、自分で辟易する。
「結局、一番問題なのは『私』と『彼』が何を指すかになるね」
あたしの気後れ加減には微塵も気づきもせずに、一見爽やか青年風の狐が首を捻っている。同乗する社会人風の女性達がちらちらと常葉を見ているので、あたしとしてはそっちのほうが気になってしまう。
「私の指す彼は一体何者なのか。ここまでの経緯から推移すると――翠仙、聞いてる?」
「え? うん」
名前を呼ばれたことに気づいて、視線を正面に戻す。相変わらず距離が近い。そういえば常葉ってどうしてこういう顔つきなんだろう。狐が化ける仕組みなんて、全然見当もつかないけど。
「つまり、あたしが君来池で逢った人が『彼』じゃないかって言うんでしょ」
夢の中の……じゃなくて、君恋池の話は朝食を摂りながら簡単に説明済みだ。まさか表裏が夢と現実だったなんて、と二人仲良く感心しっぱなしだった。だって、常葉なんて池の内側まで探そうとしていたんだから。いや、もう探したんだっけ?その辺りはそういえば詳しく聞いてなかった。
「名前は――そう、ヨヒラって名乗ってた」
「ヨヒラ?」
「うん。どう書くかは分からないけど」
突然池の辺に現れた不思議な人。会話を交わした程度しかヨヒラさんのことは知らないけれど、彼の口振りからして陽花さんのことは知っているみたいだし、時計が直接届いたことを考えれば不自然じゃないわね。それに今更新しい登場人物が出てくるなんて考えたくもない。
「ヨヒラさんもそうだけど、陽花さんは一体何者なの。あの人の家に行くと、なんだか感覚が違って」
いまだって鮮明に思い出せる、彼女の家。実際に伺ったのは結局一度だけだけど、深砂鷺の店とはまた違った雰囲気があった。静かな場所なのに何故か心がざわつくような。霧のせいだろうか。それとも、人里から乖離したようなあの土地のせいだろうか。
「それについては、やっぱり僕も確かなところではないんだ。ただの人間とは言い難い、けれど、あの人は確かに人間だったのだと思う」
「どうして?」
はっきりと言い切った視線に問い返す。すると常葉は穏やかに目を細めて、
「僕が狐だから。それと、僕が長年ヒトと一緒に過ごして来たから」
改めて、目の前の彼は一体どれだけの歳月を知っているのだろうか。人間にしか見えない狐の心や視線は、一体どのようにあたしという存在を測っているのだろう。
あたしだけじゃない。薊堂のこと、お祖父ちゃんのこと、あたしの父親のこと。浅見家の人間のこと。
いつか聞いてみたい。人間でないものの目に映るあたしは、果たして一人前の人間なのだろうか。