七変化遁走曲
5.終わりの色
チン、と淋しい音をさせて受話器を置く。右耳が自由に外気に触れる。あたしはふいに振り向いて、そこに待っていた人物に、どう?と尋ねた。
「残念ながら、万葉集を全部覚えてるほど博学じゃないんだけど」
肩を竦めるエプロン姿の狐。いつの間に置いてきたのかお玉は握っていない。
ちなみにあたしが前置きなしで彼に聞いたのは、狐の聴力で電話の会話は筒抜けだったのと、それについてあたしが承知の上で常葉を同席させたからだ。これだと説明の必要はないし情報共有時に発生するすれ違いも存在しない。
「とりあえず午前にでも紺屋に頼んで借りて来ようか。あとは、『私を探して』の意味だね」
既に依頼の内容の分析に入っている彼。飲み込みの速さに、驚きながら疑問を感じる。
「陽花さんの話――あたしが夢の中で君恋池に行ったことは信じるの?」
「うん」
狐は容易く頷いた。あたしが拍子抜けするくらいに簡単に。
どうして?という疑いの視線に気づいたらしく、くすりと笑って寄越した。
「言われてみれば、君は元々素質があったし。何より桂一朗の孫だからね」
「素質?」
「春先の華崎邸でのこと、覚えてる?」
促されて思い出すのは、あたしが薊堂に来て初めてのお仕事のこと。依頼主の屋敷で身に降りかかった奇妙な出来事と、その家で管理する社で見た『夢』。あの時の常葉は『石段から落ちた』なんて誤魔化してたけど、結局はその社の御神体の意識に飲み込まれたというのが実際だった。
「でもあれは、たまたまあたしが飲み込まれただけで」
「本当に?」
「え?」
しどろもどろと答えると、突然真っ直ぐに覗き込まれるその視線。琥珀に近い色のそれは、時々光の加減で赤にも金にも見える。その瞬間を目にした時だけは、強く、この男が人間でないことを実感する。
「じゃあどうして飲み込まれたのが、僕やあの屋敷の人間じゃなくて、君だったの?」
「それは――」
彼特有の、幼子に言い聞かせるような口振り。問い質すような導くような。お陰であたしはいつも、目印の見える着地点になめらかに降りることが出来るのだ。
「ね? やっぱり君には素質がある。だから、これからもちゃんと『修行』は続けるべきだよ」
ただし、それが不本意なこともしばしばだけれど。
「さて。そろそろ魚も焼けた頃だ。いつもより少し早いけど、ご飯にしようか」
常葉は軽く背筋を伸ばしたかと思うと、肩をぐるぐると回しながら事務室の戸を押し開けた。
「用意しておくから、着替えておいでよ」
「はーい」
基本的に人間でないことを疑うほうが難しいくらい、人間臭い。
今日の朝食は和風なのかと納得しながら、あたしもその後ろをのろのろと出ていく。廊下には既に醤油とダシのいい匂い。
吹き抜けから降りてくる陽光の眩しさと、影の色濃さ。
今日は暑くなりそうだなと、あたしは階段を上りながらぼんやりと考えた。