七変化遁走曲
『――は何か言っていなかった?』
新しく浮かび続ける疑問の中に陽花さんの声が続いて、深く思考に沈みかける頭を振った。瞬きを繰り返して、聞き漏らした声をもう一度聞き返した。
「すみません、何ですか?」
『その四阿で、男の人に会ったでしょう。彼は何か言っていた?』
何でもいいの、強く覚えていることだけでいいわ、と続けられる言葉。確かに、あの人とは少しの間言葉を交わした。けれど聞いたのは池にまつわる話くらいで、他に印象に残っていることと言ったら――そうだわ。
「歌を口ずさんでいました。歌というか、短歌というか」
『どんな歌だったか覚えている?』
「ええと……教科書にも載ってるような有名な歌だったと思うんですけど……なんだったかな」
夢の中の出来事を、まるで昨日体験した事実のように思い起こす。
アジサイの花が浮かぶ池。背後から聞こえた人の声。見上げた先の、淡い色の着物姿の男性。あたしはなんという言葉に驚いて振り返ったのだったか。
「――そう、確か『みおつくし』って」
『みをつくし、恋ふるしるしにここまでも、めぐり逢ひける縁は深しな』
「あ! それです」
聞き覚えあるフレーズが返されて、つい大声になってしまった。
すみません、と謝るといいのよ、と柔らかな声。
『源氏物語ね』
なるほど、聞き覚えがあるはずだわ。陽花さんの博識ぶりに感心していると、いつの間にか受話器の向こうが静かになっている。どうかしたのだろうか、電話が切れてしまったのかと怪訝に思って、
「あの……陽花さん?」
『ああ、ごめんなさい。なんでもないの』
返事があったことに安心する。けれど、この言い表しにくい違和感は何だろう。そんなものは陽花さんの話を聞いているうちにすぐ分からなくなってしまった。
『実はね。まだもう少し、探してもらわないといけないみたいなの。確かに時計にはあったけれど、また逃げられてしまったみたいだから』
声には明らかに疲れた気色。困ったような途方に暮れたような、ううん、それよりももっと……何故だか、哀しそうにも聞こえる。
『きっと時間的にも、これが最後のお願いになるわ。何度も振り回してしまってごめんなさいね』
「気にしないでください。ちゃんと最後まで、仕事はやりきりますから」
あたしは努めて明るく答える。これでも薊堂で働くようになって二ヶ月。常葉の真似事だって何だって、請け負ったお仕事は最後まで責任を持つ。それから、依頼主に不安を持って待たせないのも薊堂のやり方だって知ってる。
心強いわ、と聞こえてくる微笑含みの声。任せてください、なんて宣言してみる。気持ちだけは十分だ。
「翠仙ちゃんは、古典は得意かしら」
「特別得意ってわけじゃ……ないですけど」
『じゃあ、世界最古の歌集は知っている?』
「ええと……確か、万葉集?」
今のはあからさまに安堵した言い方をしてしまったと自分でも分かったけれど、陽花さんは笑ったりはしなかった。
その代わり、十分な間を開けて、やっと選び出したらしい『ヒント』をくれる。
『私を探して。そして、彼に伝えて頂戴』