七変化遁走曲
パジャマのまま降りていって、事務所の受話器をとる。ぐるぐると回すタイプの旧式電話。耳にあてたその受話口からは彼女の声が聞こえてくる。
『おはよう。翠仙ちゃん』
風にふかれる風鈴みたいに透明で、歌うような心地よい声。山奥の邸宅に住まう彼女の声は、旧式を介しているにしては驚くほどクリアに耳に届いた。
『起こしちゃったかしら。大丈夫?』
「大丈夫です。起きてました」
見えるはずもないのに首を振ってしまうのは、たぶん日本人の脊髄に染み込んだ反射なのだろう。思わず微笑みまで浮かべて、お元気でしたかと尋ねる。
『最近は暑くなってきて、もう夏も近いわね。梅雨ももう、終わりの頃ね』
「けれど、今年はあまり降りませんね」
『――そうね』
少しだけ不思議な間があいて、首を傾げる。続けざまに聞こえてきたのは、ありがとう、という声だった。
『藍色の硝子時計、探してくれたのね。ありがとう』
「でも、それは」
夢の中のはずなのに、と言おうとして、憚られる。そんなまさしく夢物語を信じてもらえるだろうか。その前に、あたし自身が俄かには信じがたい。
『君恋池にたどり着いたんでしょう。貴女なら見つけてくれるって信じてたわ』
「あの、すみません。あたしにはよく、理解できなくて」
『どうして?』
「だって、確かに池には行きましたけど……その、夢ですし。現実で尋ねたわけじゃないんです」
ふふふ、と涼しい声質が耳に届く。静かな花のような笑顔も目に浮かぶようだった。
『現実じゃないからよ。夢と現実は似ていて違う。表裏ですもの』
「表裏……」
そのフレーズに思い当たる節がある。君不来池によく似た池。東屋のあるはずの場所に立派な廟。夜に見る夢の中で酒を嗜む男。彼の呟いた、君恋池の名前。
何もかもが、正反対に変わっていた場所。不思議な空間。
「もしかして……あれが本当の、君恋池なんですか」
視界に入った飾り棚。預かりものの一輪挿しのすぐ脇には、常葉が庭で摘んだアジサイの花が朝露のまま生けてあった。
ああ、綺麗な青だ。頭の端でとっさに考えていると、耳の奥に陽花さんの声が響く。
『そうよ』
こんな偶然って、と言いそうになって、まだ自分が混乱していることに気づいた。
夢の中での出来事。夢の中で渡した盃。
お礼にと貰ったはずの硝子時計と、机の上に置いてあった半円の石。
握りしめた石が段々と体温で温かくなっていく。あれが夢でなかったと証明するように。
――でも、どうして、あたしが?
どうしてあたしが、あの池に行くことができたのだろう?