七変化遁走曲
夢の中ではあんなに夢だと理解していたのに、目覚めればまたあれが夢だと気づくのに時間が必要だった。
反対に、何故あたしは夢だと理解したのか。今思えば、風の香りも霧の冷たさも、差し出されたはずの中国茶の味だって分かったのに。
それでも、夢は夢だ。だってあたしがこうしてベッドの上で目覚めたのだから。
目覚まし時計を見れば、まだ6時前。少し喉が渇いた気がして、部屋の備付の冷蔵庫を開ける。
薊堂にはキッチンは一階と三階にある。三階のあたしの部屋のほうはワンルームサイズの小さなもので、もともとは料理するような環境はここにしかなかったらしい。それが、常葉の家事趣味が高じて一階にしっかりしたキッチンを作ったとか、なんとか。まぁ、おかげであたしが毎日自炊しなくても済むので助かるんだけど。
麦茶のパックを沈めておいたプラスチック製のポットを取り出して、コップに半分くらいまで注ぐ。六月も中頃を過ぎれば、温かいを超えて暑い日が増えてきた。それでもやっぱり梅雨らしい天気は少なくて、庭に咲くアジサイの株も随分暑そうに見える。
アジサイ。そういえば、夢の中の君不来池にもたくさん咲いていたっけ。薊堂の庭のはセイヨウアジサイだけれど、池に溢れていたのはふわりと丸い花の株だった。
と、コップを置いたタイミングでドアがノックされた。返事をすれば常葉が顔を覗かせて、おはようと開口一番唱えた。
「今日は早いね」
「常葉こそ。ご飯、まだでしょ?」
朝食はいつもだいたい7時過ぎだ。常葉のことだから下準備は始めているんだろうけれど。
実はね、と、何故かフライ返しを握りしめながら手招きする。
「陽花さんから連絡があったんだ。ちゃんと届いたからって」
「え? なにが?」
「硝子時計」
彼の言葉に一瞬、思考回路が停止する。よく見れば、狐の顔には困惑の表情が浮かんでいる。あたしはとっさに振り返って、棚に置いたままの盃を探す。
昨日寝るまでは、たしかにそこにあった。包んで仕舞った筈の箱さえ見当たらない。それから、その代わりに机の中央に置いてある、半円の硝子玉。
掌に収まるくらいの。中心にアジサイの花のあしらわれた、綺麗な硝子玉。