七変化遁走曲
「ならば、私からは此方を渡そう」
いつから置いてあったのか、彼が指差すテーブルの隅には硝子時計があった。
繊細に光を吸い込む硝子の美しさ。耳を澄ましてみるとかすかに聞こえる針の音、貝殻の文字盤。
数字を成しているのは黒曜だろうか?何よりもこの、鮮やかにも澄んだ瑠璃の色。今までに硝子時計はいくつかみたことがあるけれど、こんなに明度の高い青は初めてだ。
「素晴らしいものを頂いた礼だ。あの人に、大切にすると伝えてくれるか」
あの人?と問い返す隙もなく、四片はもう一つ懐から何かを取り出して、
「それから、こちらは君に。お喋りに付き合ってくれた礼だ。大事にとっておきなさい」
そっと手渡されたのは、また別の硝子細工だ。五百円硬貨くらいの大きさの、つややかに丸く磨かれた硝子玉。その中央に藍色を注して花弁が模してある。
あたしはその花のフォルムに見覚えがあって、感銘を受けながら彼の目を覗き返した。
「これ……アジサイの花?」
この時期によく知った、水色やピンクに染まるあの花弁。ううん、本当は花びらじゃなくて萼なんだったっけ?そうして目をやった水辺に浮いているものが同じだと気づいて、そうか、あの池を彩るのはアジサイだったかとようやく気が付いた。
「そうだよ」
彼は嬉しそうに頷く。その微笑に引き込まれるように、視界がふわりと霞がかった。
「君を守ってくれる。きっとご利益があるよ」
声は明瞭なのに、瞼が重い。
ああそうか、夢が薄れていく。なんだか、とてもとても眠い。
段々と東屋の屋根が遠くなって、池が近くなって、あたしの視界に最後に残ったのはアジサイの花だった。
「ありがとう……四片、さん」
お礼の言葉を口にしたつもりだけれど、はっきりと声に出来たのかはもう判別がつかない。
船を漕ぐあたしを見て、四片さんは微笑する。さっきまでしきりに口をつけていた硝子コップはもう持ち上げないままで、その代わり、あたしの頬のほうへ右手を伸べた。
その指先が、頬に触れたかどうかは覚えていない。
「みをつくし、恋ふるしるしにここまでも、めぐり逢ひける縁は深しな――」
それ、何の歌だっけ。
四片さんの声がふわふわと耳の奥を擽る。
眠い。とても、眠たい。
夢に落ちて。
掌に残るのはアジサイの藍色。
きっと次に目を覚ましたら、そこは夢の外。あたしのいる現実だ。