七変化遁走曲
ふふふ、と優雅に笑うその様子はどこかの宮殿の官吏のようで。
再び夢の中へと導かれるようなその微笑に、今度はあたしが眉をひそめる番だった。
「……もしかして、お酒を飲まれてますか」
どことなく朱の入った目元。しっかりしているようで捉え難い言葉の連なり。見当違いの返答。それから、ふわりと漂う甘い香り。それが酒の芳香だと気づいたのは、祖父の隣で嗅いだお神酒の香りをやっと思い出したからだった。
なんてことだ。まだこんなに明るいのに。
なんだか急に呆れてしまって、ふうと肩の力を抜く。果たしてどこまでがお酒の力なのか。これで伝承までが彼の作り話だったら……いや、それにしてはスラスラと語って聞かせたのだから、大丈夫だと思うけれど。
「いやいや、今は夜だろう? 内と外は反対なのだ」
窘めれば、分かっていると嘯きもう一口。けれどその瞳が遠く水際の花にとまったのを見て、あたしははっと目を見開いた。
その横顔を、こっそり盗み見る。遠い眼差しは憂いを帯びた目。あんなに饒舌だったのに、横顔はなんだか寂しそうな人だ。
彼は何を考えているのだろう。もしかしたら、伝承に出てくる二人に思いを馳せているのかもしれない。彼にもそれと似た境遇があって、愛しい誰かのことを思い出しているのかもしれない。
――なんて、夢の中のせいだろうか。今のあたしはどこか詩人めいた思考をしている。
膝の上にふと袖を下したその時だった。自分のポケットに何かが入っているのに気が付いたのは。
掌にすっぽり収まる程度の紙の塊。半円状で、中は芯があるように硬いもの。和紙越しに届くのはまるで陶器の冷たさ。取り出して紙をめくれば、そこには陽花さんからもらったはずの小さな盃があった。
どうしてこんなところに。あたしはどうして持ってきたのだろう。
首を傾げる傍で、また、かつりとガラスコップがテーブルに座る音。ふわりと漂う酒の香り。
その瞬間、ぽろりと鱗が落ちる。突然に理解したのだ。ああこれは、この人に渡さなければいけないのだと、強く思った。
ちぐはぐに、安っぽい硝子のコップで御酒を嗜む、彼に。
「あの、四片さん。よければ……これ、使ってください」
あたしは少しだけ別れを惜しんでから、そのままえいやと紙の包みを彼のほうへと差し出した。
これは?と首を傾げるので、答える代わりにくしゃくしゃの和紙を取り払う。そうすることで、テーブル上に盃がひとつ姿を現した。
透き通って深い藍色。水辺の花よりもずっと甘やかな青。
「頂き物ですけど、私はお酒は分からないから。良く分かる人に使ってもらったほうが盃も幸せでしょ」
それに万一のことがあっても、これは夢なのだから。そう言い訳しながら、彼にならと譲り渡す。
言っておくけれど、これは今のうち。あたしの気が変わらないうちに彼は盃を受け取らなければいけない。
てっきり首を振られるか、これ見よがしに要らないと言われるか、そう覚悟していたのに返されたのは憂いの瞳だった。
じっと息を詰めて見る影。濡れたように輝く陶器の表面は涼しげだった。彼はそれを手を伸ばすことなく眺め下して、ようやく言葉を零した。