小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

七変化遁走曲

INDEX|31ページ/70ページ|

次のページ前のページ
 

 夕餉のいい匂いが漂い始めた頃、珍しく一階でノッカーの音が響いた。
 うちにやってくるお客さんは大体がそのまま入ってくるので、来客はどちらかというとカウンターのベルで知ることが多い。常葉曰く、ノッカーを使うのは昔馴染みや郵便屋など、慣れた人物ということだ。
 入り口の戸の硝子に来客のシルエットが映っている。あたしが、はい、と応えると、帰ってきたのは『こんばんは』の声。聞き覚えがある気がした。
 がちゃり、施錠はまだだったので扉だけを押し開ける。戸の影から現れたのは、生成り色の浴衣を着た男性の微笑。

「こんばんは、翠仙ちゃん。良い匂いだね」
「ええと――紺屋さん?」

 和服のよく似合うその人は、つい先日お邪魔した真裏の古本屋の主人。名前は、そう、紺屋永春さんと言ったはずだ。名前を呼び返せば、覚えてくれていたんだね、と常葉とは質の違う穏やかな微笑みを浮かべた。
「頼まれていたものを早速届けに来たんだけど、改めたほうがいいかな?」
「いえ、大丈夫です。今常葉を呼びますね」

 二階の応接室に紺屋さんを通し、麦茶を注ぐ。それから三階に上がっていって、味噌汁の味見をしている後姿に声をかけた。ついでにちらりと夕飯のメニューを窺う。個人的には豆腐サラダがとても魅力的だ。
「わざわざすみません。さすがに深砂鷺さんは物持ちがいいですね」
 それは褒めているんだろうか、揶揄しているんだろうか。とりあえず揃って座り、紺屋さんの持ってきてくれた平箱を眺めた。A4サイズくらいの、紐でしっかりと括られた木箱。彼が上蓋を開ければ、中からは八つ折りの厚手の和紙が出てきた。

「ご要望通り、君来ず池周辺の古地図だよ。あの辺りが自然保護の一環で整備されたのは明治に入ってからだけど、それ以前は何百年として地形の変化はないみたいだね。で、件の公園も立地的にはあまり手を加えていないらしい」
 紺屋さんは手際よく和紙を取り出すと、来客テーブルの上いっぱいにそれを広げた。墨で書かれたそれは確かに地図だった。心持ち線が色褪せているので、それなりに古いものだと分かった。
「現存しているもので緻密さに秀でているのはこれ。朱書きによれば天保元年に書かれたもの。保存状態も良い方だ」
「天保元年っていうと――?」
「1830年。今から170年程前だね」
 さらりと言って退けたのは常葉。170年前?そんなに古いものが、こんなに立派な形で出てくるものなのだろうか。昨今、インクの加減では数日で読めなくなってしまうものさえあるのに、目の前のこれは数年で計るよりずっとずっと昔のもの。あたしは改めて骨董の専門家の力量に驚いていた。
 同時に、天保元年と聞いてさらりと西暦換算してしまう常葉にも動揺する。
 そっか、どれだけ普通の人間に見えても、やっぱりあたしとは違う生き物なんだ。


「『君来ズ池』」

 常葉の声が急に耳に入ってきて、ぼんやりしていた背筋を伸ばした。紺屋さんと常葉が地図の表面を追っている。指の先を見れば、池の中央に小さな文字が並んでいる。
「やっぱり君来池じゃないね。この池も昔からあるもの?」
「そうなるようだよ。公園にするときに少々形を整えたようだけど、自然的に生ったものだ」
 その他にも紺屋さんは、知り得る限りの情報を提供してくれた。これ以前の古地図にも君来池の名前は見当たらないこと。周辺数十キロ範囲の小さな池まで調べても該当する名前は存在しないこと。
 加えて、常葉も自らの調査結果を口にする。
「僕が調べた限り、文献に名前が載ったのは西暦715年。日本では和銅年間で、所謂風土記編纂の一環として集録されたのが最初だという話だ。けれど、それは残念ながら現存していない。確実に名前が残っているのは、やっぱりこの頃の新編風土記。そうすると、どこまで追いかけても君来ズ池が君来池だった記録は見つからない」
 それから一息の間の後に紺屋さんが相槌を打った。ふむ、と、まるで感心にも取れる溜息が地図の上を滑っていく。

「つまり、そういうことでいいのかな」
「そうなるでしょうね」
 肯定したのは常葉だ。神妙な面持ちで、向けられた視線それぞれに頷く。

「あの場所に君来池は、歴史的には存在しない」
作品名:七変化遁走曲 作家名:篠宮あさと