七変化遁走曲
「うーん。結局、手掛かりになりそうなものは何もないわね」
半時程時間をかけて辺りを散策した結果、成果らしき成果は特に上がらなかった。
手掛かりどころか何もない。あるのは池と自然と東屋だけ。それから、東屋の横にひっそりと立っていた由来起源の看板くらい。
「実は、ちょっと引っ掛かってたんだけどね」
東屋の屋根の下、常葉が持参していた茉莉花茶で一息つきながら。斜め向かいに腰を落ち着けていた抜かりない狐の眼が、ゆったりこちらを捉える。水筒の中でよく冷えたお茶は、西日の照らす午後には美味しい。
「どうして今回、陽花さんは池の名前を教えてくれたんだと思う?」
「それは僕も気にかかっていたんだけど」
いかにも腑に落ちていないという表情で水筒を傾ける。まるでお酌の如くジャスミンティーを飲ませてくるので注ぎ口をぐいと押し返した。
まったく、と、何気に視線を柱の外へ。掠れて読み辛い墨字の並ぶ立て看板。確かこの池の由縁が書き連ねられたものだった気がする。それをもう一度と喉の奥で読み始めて、奇妙な違和感を見つけた。
「あれ? ねぇ、常葉」
仕方なく自分の紙コップにお茶を注いでいた手が止まる。あたしはというと口に含みかけた生命の冷たさを、ほとんど無意識的に机の上へ置いた。
そして自由になった右手で、墨の字を追いかける。
「これ、キミコイノイケじゃなくない?」
覗き込んだ板目の表面。右から縦書きのその先頭に仰々しく書かれた草書体。辛うじて読むことの出来る崩れて日焼けした字を、もう一度読み返してみる。
きみこずのいけ。けれど流麗たる仮名文字は『きみこずのいけ』と確かに読める。常葉に促しても結論は同じだった。慌てて読み進めた文面にも、君来池は見当たらない。
いや、中程に『君恋池』の別称を見つけたが、どうやら読み方は『きみこいしいけ』。これまたキミコイノイケでは無かった。
「なんてことだ。これじゃすっかり真逆だ」
どれだけ間近で見たって、角度を変えたって変わらない。いくら相手が流麗な続け字だったとしても、うちの狐が仮名文字を読み違えるはずはないのだから。
「つまり、ここじゃないってこと?」
徒労感を隠す気も起きないままに、ぐったりとベンチに座りなおす。まさかこの1時間が無駄だったなんてことが、あっていいものなのだろうか。何もないばかりか、ここですらないだなんて。
あたしは水筒キャップの底に残っていた冷茶を飲み干すことも出来ずに、どうなの、と傍らの狐へと無言で問いかける。
「いや、でも、陽花さんの『ヒント』からすると此処で正しいことが濃厚になった気がする」
つまり、君来池が直接の答えではなく間接的な手掛かりだということ。それを常葉は主張したいらしいけれど、それにしたってここには『何もない』のだ。あとは何処をどう、何を探していいのか、全く持って見当がつかない。
えぇ、と我ながら情けない声を漏らす。得体の知れない眩しさに顔を顰めれば、いつの間にか池の表面にぎりぎりと西日が反射していた。
「でもタイムアップだ。一旦薊堂に戻って日を改めよう」
現場慣れした薊堂正社員の宣言により、その日の捜索はとりあえずの終了を迎えたのだった。