七変化遁走曲
宙吊りのジェットコースターにでも乗ってるみたいな不安定さと、エレベーターの箱の中に似た重力の違和感。それが同時にやってくる、そんな奇妙な感覚。
目は開けるなと言われたので黙って従っておく。話によれば、『見ては駄目』なのではなくて単に『乗り物酔いするから』ということらしいのだけれど。
両足が地面につく、その瞬間だけ微風を感じる。肘と肩の辺りを支えていた常葉の手の触感が遠ざかって、あたしはやっと外の景色を見た。
「狐って便利ね」
全然知らない草原を見つけて聞くともなしに呟いてみる。念のために言っておくけれど、ここでの『狐』は山裾に出る一般的な野生の生き物の話ではない。どこをどうやったのかすっかり人間の見た目をしている、家事が趣味の化け狐のことだ。
引っ張り出した携帯電話で確認すれば、時間は目を閉じてから数分しか経過していなかった。
「これでも人目に気を遣うのが大変なんだよ。翠仙が一緒じゃなかったらやらないよ」
うちの狐が疲労を和らげようと息を吐き出した。
つまり常葉が言いたいのは、明日も学校の高校生を連れていると活動時間にも制限があるのでこうして『近道』をせざるを得ない、ということらしい。
「あたしのせいだっていうの?」
「だってそうだろう? 君は明日も学校なんだから、あまり時間を食っている場合じゃない」
もしかして、一人だったら電車やバスを使うということだろうか。
常葉が?狐のくせに?切符を買って?もしかしてタッチ式定期?どれだけ俗世間染みているというのかと、勝手な空想が広がる。そんなあたしに気付かずに、彼は一人周囲の観察を始めた。
辺りを木や草花に囲われた、外周一キロもなさそうな小さな池。右側が草原で左側はすっかり水際ぎりぎりまで木々が迫っている。池の周りに木が育ったのか、森の中に池が出来たのか。ところで、沼と池の違いってなんだろう。
――とにかく、ここが君来池。
あたしたちが下り立ったのは、平坦になった一角だった。人間の生活圏からは離れた場所にあるようで、自然の影以外は何もない。右手の少し小高くなっている所に、かつての休憩場所だろうか、年期の入った東屋がひとつ。
「とある自然公園の最奥なんだ。元々人が来るような場所にないから、余計にうら寂しい感じがするね」
「でも、静かで良い場所だわ」
見れば水鳥が波紋を作っている。耳に届くのは風の音くらい。芳香は僅かに雨が混じっている。水際に茂っている大きな葉の株。そういえば陽花さんの屋敷にもあれと同じ株が沢山茂っていたっけ。
けれど、ここのには蕾がない。咲かないのかな。
常葉が斜面を上って行くので、あたしもなんとなくその後ろに着いて行く。藍色屋根に木目の見える柱。中を覗き込めば、丸いテーブルと長椅子が添えつけてあるだけの東屋だ。雨でも降ったのかベンチは僅かに湿っていて、たとえ疲れていても座る気にはなれなかった。
視線を上げてみる。欄間に補強の格子が嵌められているところを見ると、公園が出来てから置かれたものなんだろう。
他に見るものもないので、その場は常葉に任せて、そのまま池側へと下りることにした。
斜面にはなだらかにスロープが拵えてあった。スロープと言ってもコンクリートや石畳で舗装されているわけではなく、単に土を打ち固めただけの簡単なものだった。手摺があるわけでもないので、転ばないようにゆっくりと下っていく。
路の両脇以降は全て青草。雑草が混じっているので芝生ということでもなさそうだ。ここからも雨の香り。天気が良かったら、寝転がってみるのも気持ちが良さそう。
視界に広がるのは、深い深い鏡面世界。開けた空から覗く青色が移って消えていく。綺麗な池だった。
きみこいのいけ。すごくロマンティックな名前に似合った風景だった。時間が止まっている。流れていく雲の陰に、やっと時間の経過を思い出す。
通り過ぎた雨の香り。耳を澄ます。誰かの声がする。
「え――?」
いつの間にか閉じていた目を開いて、もう一度耳を澄ました。男声の、でも常葉の声とは違った。
誰かが呼ぶ声。呼びかけてくる声。そう思ったけれど、それ以上その『声』は聞こえてこなかった。
「どうかした?」
あたしが立ち尽くしたまま戻ってこないので、不思議に思ってか常葉がわざわざ水際にやってきた。
「さっき、何か聞こえなかった? 何か感じない?」
あたし達以外の誰かがいないかと、狐に訊ね返す。人間の姿をした狐は耳に神経を集中させ、続けてぐるりと辺りを見渡す。
「何も聞こえなかったけどな。それに、この辺りには僕に似たようなものの気配はないね」
そう言ってから僅かに眉を顰めた。そう、と見当違いに首を傾げるあたしの死角で、もう一度周囲を見回した。
「いや、むしろ不自然なくらいに……」
低く抑えられた呟きは残念ながら、あたしの耳にまでは届かない。