七変化遁走曲
教室のドアを潜った途端、待ち侘びていたように本鈴が鳴った。席に着いてすぐ古典の先生がやってくる。あたしのクラスの担当は、まだ若い女性の先生だ。去年からの持ち上がりの先生なので話しやすいし、なにより分かりやすい授業をするので、お陰様でそこそこの点数を取ることができている。
「それでは、今日は漢詩を進めましょう」
といっても、今のあたしに重要なのは常葉に出された宿題のほうなので、さっき借りてきた本はそのまま机の上に。丁度良く漢詩の本なので参考資料としてカモフラージュもばっちりだ。
「今日読むのは月下独酌。李白の作品になります。彼は盛唐の詩人で、杜甫と並び李杜と謳われる大詩人です。また彼は、よく月と酒を好んだことで知られています。そこから派生されたと考えられる言い伝えがあって――」
試しにパラパラと捲ってみると、丁度今先生の話している李白のページがあった。もう一つ言えば、この李白にも白が入っている。
だったら、この辺から探してみようかな。ぼんやり考えていると、どこかで聞いたことのあるフレーズが唐突に飛び込んできた。
あたしは思わず自分の耳と、識語能力を疑った。
「――酒に酔った挙句、湖面の月を掬おうとして溺れ死んでしまったという伝承があります。有名な話なので、聞いたことのある人も多いかもしれませんね。これが……」
酒と白、そして月。常葉が言っていた、月を捉えようとしたという伝承。
とっさに目で追うページの上に、これまた覚えのある言葉が並んでいる。
「捉月伝説……」
思わず口にする。それがどうやら先生の耳に届いてしまったようで「あら、浅見さん詳しいですね」などと褒められてしまった。
けれど、正直に言って、あたしにはそんな評価の言葉も届いていない。曖昧に笑いながらも、指先には確信が待ち受けている。
しっかりと人差し指で追いかける、その文字。
――見つけた。
そうか、李白。紛れもなく酒と白だ。