七変化遁走曲
――とは言っても、ねえ。
生徒手帳に書き留めた『雨夜』『盃』『白』の三単語を眺めながら、あたしは図書室で時間を浪費していた。
昼下がりの図書室は静かな賑わいを見せている。新しく入った小説を早速読んでいる人、原稿用紙を広げている人、分厚い辞典を引っ張り出して何か探しものをしている人。あたしも検索用のパソコンを弄ったり本棚の間を練り歩いたりしてみるけれど、これといって手がかりになりそうなものはない。適当に目に付いた書名を開いて見て戻して、その繰り返し。
「個人的には、日本か中国の小説じゃないかと思うのよね」
誰が答えてくれるでもない質問を、人通りのないタイミングを見計らって口にしてみる。というのも、さっきから数人『白』と付く作家がちらほらと目に付くからだ。
北原白秋、正宗白鳥、白居易……
この中からお酒に関係する作品を探せばいいんだろうけど、タイトルに『酒』の字が入っているものを探すだけでも一苦労だ。加えて雨となれば、随分絞れそうな気がするのだけれど。
「そういえば、常葉は何て言ってたっけ。何伝説?」
意地悪くもあの狐は文字どころか正しい言い方を教えてくれなかったので、コゲツ伝説かトゼツ伝説かさえも分からない。残念ながら図書室の検索でもヒットしなかったし、今は意地で探しているようなものだった。
諦めてそろそろ戻ろうかな。幸い午後いちの授業は国語だし、先生に質問してみるのもいい。決心してくるりとUターンをしたその背中に、何だか聞き覚えのある声が追いかけてきた。
「あれ? 翠仙ちゃん」
親しげに呼ばれるあたしの名前。そして、こんな意外なところで彼に会うことに、あたし自身も驚いていた。
「やっぱりそうだ。珍しいね、図書室にいるなんて」
まぁね、と曖昧に返事する。不思議がっているのはあたしのほうだけじゃないらしい。彼も――弟の朱音も同じように、姉弟の偶然の再会を喜んだ。
「朱音はよく来るの?」
「俺は図書委員だから。毎週水曜は当番でカウンターにいるよ。翠ちゃんもたまには利用してくれよ?」
そう言われれば、彼が抱えているのは沢山の本。どうやら返却された本を棚に戻すのが彼の仕事のようで、あたしと話しながらもまた一冊、近くの本の隙間に背表紙を押し込んだ。
「そうだ、朱音なら知ってるかも」
「ん。なぁに?」
本を戻す手を止めて、しっかりとこちらを振り向く。確か、朱音は読書を趣味のひとつにしていた。あたしの知らないような、それこそ教科書に名前が載るくらい昔の作家の作品まで幾つも読んでいるのだから、ずっとずっと頼りになるはずだ。
「実は、探している本があるんだけど……」
昼休みの時間も考慮して、掻い摘んで経緯を話す。必要なキーワードがあること、それに関連する作品や作家を探していること。水面の月を拾おうとして落ちてしまったという伝説のこと。すると、はじめはふんふんと頷いていた彼が、少し考えてから顔を上げた。
「それなら――」
近隣の本棚を見渡したかと思うと、すぐにハードカバーの全集からひとつ本を抜き出した。百科事典ほどは無いにせよ、電話帳くらいは厚い本だ。
「この辺りじゃないかな」
「中国古典?」
「有名な詩人の作品なら大体載ってるから、見てみるといいよ」
残念ながらトゲツ伝説が誰なのかは度忘れしてしまったらしい。とはいえこの中なら確実に乗っているだろうから、時間があるときにでも読んでみるといいとのこと。
「そっか。ありがとう」
どういたしまして、という言葉に被さるようにチャイムが鳴る。腕時計を見れば、いつのまにか五分前。仕方ない、一旦教室に戻ることにしよう。
貸し出しの手続きを済ませて、朱音と一緒に廊下に出る。あたしの教室はひとつ上の階なので、せっかくだけれど急ぎ足で別れを告げた。
「じゃあまたね」
「うん――あ、今度ちゃんと遊びに行かしてよ」
手を振っていた弟が、ふいに思い出して付け加えてくる。あたしは苦笑して、ちょっとだけ足を弛めて振り返った。
「考えとく」
どことなく不満そうに口を尖らせる朱音。だけど、そうね、今日のお礼に一度くらい呼んであげてもいいかもしれない。
勿論、常葉が留守のときに。