七変化遁走曲
「――残念ながら、出来ないわ」
「でしょうね」
重く溜息を堪えるのは、薊堂の狐だ。彼はどうやら全てを了解したうえでここに来ているようだ。まったく、またあたしに喋らないことが残っているらしい。いつになったら諦めてくれるんだろう。
「それでも、貴方達ならたどり着いてくれると信じているわ。ここまで導かれて来られたのだから」
彼女の黒髪が、さらりと揺れる。その下に隠れる表情は哀しい微笑。
数瞬の沈黙が流れる。あたしは困惑を、常葉は諦観を、主人は嘱望を浮かべながら。
さらさらと緑の音がする。
知らないうちに耳に入っていたその音が、本当は雨の音だと気付く。表の池に波紋が広がっている。蛙の声はひとつも聞こえない。
「……『雨夜に盃』」
小さく、陽華さんの声がした。あわてて振り返れば視線が合う。漆黒の瞳が雨に煙っている。
「それが目印ですか」
「そう感じるの」
曖昧な表情で頷くこともなく、ただそれだけを付け加えた。瞳だけが、何かを伝えようと真摯に向けられている。
分かりました、と常葉が頷いた。陽華さんの表情が僅かに晴れる。明らかに安堵の色が強くなり、けれど、哀しげな色は何故か消えない。
――どうしてだろう。
「探すのは」
玄関を出る直前、最後に彼女の声が追いかけてきた。白いワンピースの裾がふわりと揺らいだ。
「探すのは、明後日からがいいわね」
あたし達は振り向いて、続く言葉を待つ。陽華さんは何かを言いたげにしていたけれど、ふっと息を漏らし、丁寧に頭を下げるに留めた。
屋敷の外はやはり雨模様で、駅まで戻る頃にやっと青空が見えた。