七変化遁走曲
「貴方が来てくれるとは思わなかったのよ」
屋敷の主らしきその女性は、長い廊下を歩きながらそう応えた。
板張りの廊下は僅かに軋む。キィキィと足音を鳴らすその右手の、庭には池、蛙がころころと絶えず歌う。
「僕もですよ」
常葉は穏やかに応える。その顔にいつもの笑顔はない。
廊下を突き当たれば、満月型の窓のある和室に辿り着く。畳張りなのに部屋には八角の机と細身の椅子。窓際はカーテン。彼女が演奏するのか、床の間の傍には筝が横たえてある。洋風文化が移入したばかりの日本の屋敷のような印象を受ける。
ようか。それがこの人の名前らしい。自己紹介もまだ交わしていない中で、知り得た情報はそれだけ。あたしは彼女が一呼吸置くのを見計らって、進んで一歩前へ出た。たまには社長らしく振舞おうと意気込んだ。けれど、それはすぐ無意味なものになる。
「貴女が翠仙ね。思ったより、ずっと可愛らしい」
思わず息を呑む。常葉を振り向きそうになるのを堪えて、はい、と丁寧に頷く。
「初めまして。薊堂の社長代理の、浅見翠仙といいます」
「社長代理じゃなくて、社長でしょう。翠仙ちゃん」
思えば依頼先の社員の名前を知っているのはおかしいことじゃない。まして常葉とヨウカさんは知らない間柄ではないのだから、祖父の血縁であるあたしのことを知っていても問題はない。……って、これ、どこかで似たようなことがあったような。
「紺のところから頼まれてきたのでしょう」
あれも気紛れね。そう微笑んで、あたし達に席を勧めた。背もたれの高い椅子を引いて、静かに座る。彼女は続けた。
「わたしの名前は陽華。ようこそ、このような僻地まで来てくださいました」
華奢で繊細な印象の女性。黒髪に白色の衣服に、負けぬほど白い肌。明暗の強い色彩を纏っているのに、まるで今にも掻き消えそうに思えた。
――まるで、表の霧のように儚く。
「期間は……そうね、ふたつき。夏が訪れてしまう前に頼めるかしら」
彼女の声に、我に帰る。いけない、少しぼんやりしていた。霧の中に紛れそうになっていた自分を恥じて、とってつけたように肯定を表す。
「はい」
「何を探しているのか教えていただけますか」
「だめよ」
挟まれた常葉の質問には、即答がある。これには面食らってしまう。
「けれど、あの、探しているものが分からなければ探しようがありません」
しどろもどろと目を向ける。陽華さんは少しだけ悲しげに口角を上げた。それから、ぽつり、水面の上に落ちる雫のように、静かな波紋を広げる言葉を投げた。