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性壁

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 百合は何も言わなかった。ここで何かを言われたところで、慰めになるわけでもない。彼女も苦しみ、俺も苦しんでいる。それはお互いに理解しており、あまり関わらないようにしてきた。それが、今日まで会話がなかった大きな理由だ。
 少し頭を冷やしてこよう。そう思い、俺はゆっくりと立ち上がった。
「どうしたの?」百合が尋ねる。
「少し頭を冷やしてこようかと思ってさ。すぐ戻るよ」
 足元がフラフラしているのが自分でもわかる。気分が悪く、吐きそうなほどだった。壁に手をつきながら、ゆっくりとトイレに向かう。我ながら情けない姿だ。歩夢が見たら笑うだろうか。もうそれは永遠にわからない。
 トイレに入ると、真っ先に鏡が視界に入った。洗面台に両手をつき、鏡に映る俺の顔をじっと見つめる。ひどい顔だ。こんな状態で百合と接していたのかと思うと、さらに吐き気が増した。
頭を洗面台の中に突っ込み、水を勢いよくかける。タオルを持っていないことに気づいたのは、もう俺の頭と顔が水でずぶ濡れになってからだった。ぽたぽたと水滴を床に垂らしながら俺はトイレを出る。頭に水をかけたことで、吐き気は少しおさまった。しかしこんな顔で教室に戻るわけにはいかない。少し悩んだ後、俺は階段を上り始めた。
最上階である四階に辿り着いても、俺はまだ階段を上り続けた。その先には屋上に出られる扉があるのだ。普段は施錠されているといわれているそれだが、実際のところはあの不良軍団が鍵を持っていて、授業時間帯は常に開きっぱなしのようだと聞いている。もっとも、こんなところに来ることは今までなかったので試したことがない。半信半疑でドアノブを下げて、扉を押す。ほとんど抵抗なく扉が開いた。
 そこは本当に普通の屋上だった。景色がよく、晴れている日はここで過ごすのも気持ちよさそうだ。今日も太陽が出ているため、おそらく制服と頭はすぐに乾くだろう。
 問題は、ここに例の不良たちがいるかどうかだった。あいつらがいると色々面倒くさい。ただでさえ苛立っている今は、問題を起こさないためにも彼らと出会いたくなかった。
 屋上を一周し、誰もいないことを確認する。ちょうどいいタイミングで来たようで安心した。俺のことを人殺し呼ばわりした生徒がきているかもしれないと思っていたのだ。
 人殺し――。その言葉が頭の中をグルグルと駆け巡る。歩夢を殺したのは俺だ。あれは間違いなくただの失投だった。しかし絶対に許されない失投でもあった。あれからしばらく、テレビで歩夢についての特集を見ない日はなかった。もともと、人気者の歩夢に対して、俺はヒール的な位置を与えられていた。むしろその方が俺らしいと思って気にしなかったが、マスコミにとってそれは格好の材料だったのだろう。中には、俺がわざとボールを当てたかのようにいう者もいた。
 別にそれはどうでもいい。わざとであろうが、偶然であろうが、俺が投げたボールをきっかけとして歩夢が死ぬことになったことは変わらない。そんなことよりも俺を苦しめたのは、俺自身の心だった。
 歩夢が死んだとき、俺は当然悲しかったし、自分の投球を心の底から悔やんだ。しかしその中でも、俺はどこかでホッとしている自分がいることに気が付いてしまったのだ。もう歩夢と比べられることはない、もうあいつの憎たらしいほど純粋な笑顔を見なくてもいい、そう思うとなぜか気持ちが楽になった。
 自分が最低な人間であることはそのときに自覚した。あの不良に対して偉そうに言えるほど立派なことをしてきたわけでもないし、むしろより酷いことをしてきた。認めるのが怖かったが、もう認めざるを得ないだろう。俺の心は、もう死んでいる。
 今でも歩夢はテレビや新聞に取り上げられている。おそらく、高校野球に多少関心がある者で歩夢を知らない者はいないだろう。全員の――俺や百合を含めた全員の心に、歩夢は確かに生きている。
 おかしな話だ。これでは、どっちが死んだのかわからない。どっちが優勝したのかわからない。
 もともと生徒の立ち入りが禁止されている屋上には、申し訳程度の高さしかないフェンスだけに囲まれていた。一八〇センチ強の身長である俺の肩ほどしかないフェンスに、背中を預ける。空は雲一つなく晴れていて、これならすぐ乾きそうだ。だが、乾くのを待つのも億劫だった。
 いっそ死んだら、俺も悲劇のヒーローとして扱われるだろうか。変な考えが頭によぎる。もともとヒールという役柄を演じてきた俺を露骨に叩く週刊誌もあった。店にあったその週刊誌をすべて買占め、そして捨てた。しかし金もなかったため、近所にあった三つの書店でしかできなかった。それが俺にできた最大限の抵抗だ。
 人間は無力だ。何もできないなら、いっそ死んでしまえばいいのではないか。さすがに死者を冒涜するようなことは誰もしまい。
 一度その考えが浮かぶと、なかなか消えることはなかった。フェンスを越えている顔を後ろに倒す。一八〇度回転した景色が俺を呼んでいるような気がした。甲子園は、俺の生活を一八〇変えた。もちろん、悪い方向にだ。もう一度、一八〇度世界を変えたい。
 俺はフェンスをよじ登った。その先に、数十センチほどの幅のスペースがある。そこに両足を置き、俺は一息ついた。
 何をしているんだろう。真下はアスファルトになっている。木など遮るものは何もなく、五階ほどの高さであるここから飛び降りれば、死ねる可能際は高いだろう。しかしここにきて、躊躇いが生じているのも事実だった。数十センチを踏み越える勇気が出ない。こんな思いをせずに死ぬことができた歩夢を羨ましく思い、そしてそんな風に思う自分を憎んだ。
 あと十秒で飛び降りよう。よくよく考えれば、マウンドに比べると大したことのない緊張感だ。十……九……八……七……六……。足が震えているのが自分でも分かる。それでも構わない。生きている証拠であるこの現象を、最後まで堪能しよう。五……四……三……。
 そのとき、スラックスのポケットに入れていた携帯電話が震えた。こんなときに何だと思うも、バイブレーションはなかなか止まらない。メールではなく電話だということだ。仕方なく俺は携帯電話を取り出す。そのサブディスプレイに表示された名前を見て、俺は思わず目を見開いた。慌てて折りたたみ式の電話を開き、通話ボタンを押した。
「卓、今どこにいるの!」直後に聞こえたのは電話をかけてきた百合の声だった。
「ちょっと屋上に……」
「屋上? どうして?」
「その……風に当たろうかなと思ってさ」
 言葉が詰まる。昔から、百合に嘘をつくのは苦手だった。唯一得意だったのが好きだという気持ちを隠していることだというのは皮肉以外の何物でもない。
 百合は俺の様子に違和感を持ったのか、なかなか電話を切ろうとしなかった。無理やり飛び降りればいいものの、それもできない。百合と話すのは何よりも心地がいいことだった。
 電話越しに伝わる百合の声が、途切れ途切れになってきた。息遣いが荒くなっている。不思議に思うと、その背後でコツコツと早いテンポで音が響いているのが分かった。まさかと思った瞬間、屋上の扉が開き、肩で息をする百合の姿が現れた。
作品名:性壁 作家名:スチール