性壁
全校生徒を壇上から見下ろすと、それだけで嫌な気分になった。みんなが俺を責めるような目つきで見ているような気がしてくる。耐え切れず、すぐに視線を下ろした。
夏休み明けの始業式。全校生徒が集まったホールで、校長が俺たちの活躍――甲子園で優勝したことを全校生徒に報告している。まだ知らない生徒など皆無だろうが、それでも拍手が起きた。だがその拍手ですら、俺は嫌味なものに思えてしまう。甲子園優勝は、俺たちが得た最高の思い出であり、そして俺がこの夏得た最悪の思い出になったのだ。
校長の報告が終わると、今度は主将が一言挨拶を述べた。早く座席に戻りたかった俺は、その内容を意識することなく、ただ時間が過ぎるのを俯きながら待っていた。
再び大きな拍手が起こる。どうやら主将の話が終わったらしい。事前に俺がコメントすることを拒否しているため、これで野球部は全員壇上から退場ということになる。俺は真っ先に、舞台袖に下がった。
歩夢は試合後、すぐに救急車で病院へと向かった。何かあったらまずいと、頭に当たってすぐに銀王高校の監督が呼んでいたらしい。開会式が終わるころにはいつでも行けるように待機していたようだ。ただ、歩夢の容態はそこまで悪くなかったときいている。頭に硬球が当たったのだから、多少は体に影響が出ていたのだろうが、意識もはっきりしており、本当に“念のため”ということで向かったらしい。しかしその途中、歩夢が乗った救急車が事故を起こした。
サイレンを鳴らしながら交差点を渡ろうとしたとき、救急車に気づかなかったもしくは気づいていたが急げば渡れると判断した運転手――残念ながら真相は永遠に分からない――による自動車が横から衝突してきたのだ。それは普通の自家用車であり、救急車が大破するほどの衝撃は与えなかった。しかしそれが当たったのは救急車の真ん中で、そこにはストレッチャーに乗った歩夢がいた。
歩夢はストレッチャーで軽く横になりながら、救急隊員と話をしていたらしい。甲子園のアイドル的存在だった歩夢を知らない救急隊員は少なく、話は絶えなかったそうだ。もちろん固定などされておらず、時折身振り手振りを交えながら三年間の思い出を語っていたそうだ。衝突したときもそうだった。衝撃で簡単に吹っ飛んだ歩夢の身体は、反対側の壁に、頭からぶつかった。歩夢が話をできたのはそれが最後だった。意識を失った歩夢は慌てて呼ばれた別の救急車に乗って病院へ運ばれたが、その日の夜に息を引き取った。彼が最後に話していた内容が俺の話だったというのを救急隊員から聞き、俺は初めて泣いた。歩夢は絶対に心の中で俺を憎んでいると思っていた。それが彼の本音だと。そう思った自分が情けなかったのも、涙が止まらない理由の一つだった。
翌日の部活は臨時でオフになった。無論、俺が監督に要求したものだった。監督としても、そうするつもりだったらしい。
歩夢の病室から自宅に帰った俺が見たのは、朝刊のスポーツ欄だった。おそらく母親か父親が直前に読んでいたのだろう。そこには俺たちが優勝した記事と、それとほぼ同じ大きさの「ハレヤカ王子、事故死」と大きく書かれた記事があった。
俺はその後コンビニへ行ってみた。入口の付近にスポーツ新聞が置いてある。どの新聞も、一面で高校野球について取り上げていた。しかしその内容は、必ずしも俺たちを全面的に賞賛しているものではなかった。多くの記事は悲劇のヒーローとして歩夢を取り上げ、八回まで完全試合ながらも死球で途中降板し、そして事故死までをつなげた記事にしていた。それは仕方ないと俺も思った。俺は何も買わずにコンビニを出た。
事故の後、このときまで百合とはまだ一言も話していなかった。別にいいとも思った。そんな気分ではなかったのだ。そしてそれは、今日まで続いている。
教室に戻った俺はただ黙って席についた。窓側の後ろから二番目という席は、今まで少し寂しさを感じていたものの、今はとてもありがたかった。後ろの席は、いつも空席だった。いわゆる不良という存在だ。授業中にもかかわらずに、鍵が掛かっているはずの屋上などでたむろしているようだ。鍵は歴代の不良によって受け継がれているらしい。もっとも、まったく興味はなかったが。
しかし今日に限って、そいつは席に座っていた。背後から聞こえるガムをクチャクチャと噛む音に眉をひそめる。ぶん殴ってやりたいが、それで部活のチームメイトに迷惑をかけるわけにはいかない。もう後輩たちは秋の大会に向けて練習に励んでおり、大学でも野球を続ける者もいる。引退したからといって浮かれていられないのが現実だった。
「おう、優勝投手の秋村じゃん。毎日毎日無駄に汗水をたらしていた甲斐があったってことか?」ケタケタと笑いながら言う声が、後ろから聞こえた。
「どうも」俺は前を向いたまま答える。
「どうだったんだよ。人を殺した気持ちは」
俺の肩がピクリと反応したのが自分でもわかった。俺はゆっくりと後ろを向く。必死に感情を抑え、言葉を絞り出した。
「何が言いたい」
「わざと頭に当てて、相手の投手を殺したんだろ? それで優勝するって、策士だねえ」
限界だった。俺は立ち上がってそいつの胸ぐらを上から掴むと、そのまま引きずって廊下へ向かった。何か喚きながら抵抗しているようだが、毎日不健康な生活を送っている連中の腕力で振りほどけるほど柔な鍛え方をしてきたわけではない。そのまま廊下に出ると、俺はその生徒を壁に向かって放り投げた。
「何しやがんだよ!」
ドスッと音を立てて壁にぶつかったそいつは、すぐに立ち上がると俺に向かってきた。俺は比較的長い方である足を前に蹴りだす。哀れな男は後ろに吹っ飛び、再び壁にぶつかった。
「卓! 何してるの!」
不意に聞こえた声に対して、俺は顔を左に向けた。百合が廊下を走ってくる姿が見えた。
「別に、なんでもないよ」
「こんなことして、やっていいことと悪いことがあるでしょ!」
「だからなんでもないって!」
ものすごい剣幕で俺に向かってきた百合を、左手で軽く押す。軽く押したつもりだった。しかし勢いをつけていたことによる反動もあったのだろう。彼女の身体は後ろに突き飛ばされた形になり、尻もちをついた。彼女が持っているスライド式の携帯電話がポケットからこぼれる。
「ごめん!」
「き、気にしないで」
百合は素早く携帯電話を拾い上げると、すぐに立ち上がってスカートをポンポンとはたいた。
何をやっているんだ、俺は。百合に八つ当たりしても仕方がない。そもそもあの不良生徒に対しての行動も八つ当たりといえるものだ。わざとという部分を除き、彼が言っていることは間違っていなかった。だから怒りの感情が芽生えたのだ。俺は人を殺した。それは紛れもない事実であった。
その不良生徒は蹴られた後、俺が百合と話している間にどこかへ行ったようだった。さっきまでそいつが座り込んでいた場所に俺は座り、壁に背中を預けた。
「ごめん……」俺はもう一度つぶやいた。
「歩夢のこと?」
「ああ」百合の問いに俺は頷く。「俺が歩夢を殺したって言われたよ。否定できなくて、でも否定したくて、ボコボコにして発散するしか思い浮かばなかった。最低だ」