性壁
俺の姿を認めた百合の目が大きく開かれ、彼女はダッシュでこちらへ向かってきた。早くしなければと思うも身体は全く動かない。通話の状態を終了させ、ただじっと彼女を待つ。フェンスを隔てて、俺と百合は向かい合った。
「……何、してるの……」息を整えながら百合が声を絞り出す。
「その……風に当たろうかなと思ってさ」
「フェンスを越えて?」
「そうだな」
二人の間に沈黙が流れる。携帯電話を握りしめたままである彼女の右手が、フェンスの金網をくぐって伸びてきた。そのまま携帯電話を中指と薬指で器用に挟み、親指・人差し指・中指の三本で俺の胸ぐらを彼女はがっちりと掴んだ。
「卓の苦しみは、私には分からない。でも、自殺なんて、しないでよ……」俯いた百合の両肩が震える。声が途切れ途切れなのは、全力で走ってきたからだけではないだろう。
「百合……」
「卓に自殺なんてされたら、私……」
そういって百合はフェンスに身体を預けた。彼女の足元が水玉模様になっている。あの日から、百合の涙を何度も見ている気がする。もともと彼女は、あまり多く泣くタイプではなかった。それを増やしたのは、間違いなく俺が原因だった。
「……大丈夫。自殺なんてしないから」
俺はそっと彼女の右手を自分の左手で包む。突発的な行動で百合を泣かせるわけにはいかない。それこそ歩夢に申し訳ない。
ようやく目が覚めた俺は、俺の左手に包まれた彼女の右手に視線を移した。いつの間にか、俺と彼女の手の大きさには差ができていた。彼女の手は俺の手にすっぽりと覆われ、携帯電話だけが飛び出ている状態だ。
そのとき、俺は気がついた。百合が持っている携帯電話の待ち受け画面を注視する。そして百合を見ると、さっきまで俯いていた彼女と目が合った。
「自殺なんてしないでよ」そして百合は微笑む。「それじゃあ私の気が済まないじゃない」
右手で胸をポンッと押される。たったそれだけで、俺の身体は後ろに傾いた。もう抵抗する気力も残っていない。百合の右手を包んでいた左手も離し、俺は空中で大の字を作った。
俺はゆっくりと目を閉じる。最後に見る景色が綺麗な青空だなんて、俺には似合わない。百合の本音――彼女と歩夢の笑顔――を脳裏に浮かべながら、俺は重力に身を任せた。
完