性壁
ヘルメットを被り、バットを持って打席に向かう。マウンド上にはやはり村中がいた。
「守ります、村中チームの……ピッチャーは、村中君。キャッチャーは――」
先ほど本人が言っていたように、亜季がスピーカーを使ってウグイス嬢をしていた。引退後の紅白戦ということもあり、各々が普段とは違うポジションを守っていた。亜季もそのような気分なのだろう。当然、村中も普段はフリーバッティングなどでしか登板しない。練習試合でも登板経験がないはずだった。
村中の投球練習が終わる。由美が打席に入ろうとしたとき、再びスピーカーから声が聞こえてきた。
「一回の表、久須美チームの攻撃は……一番、セカンド、川岡、君」
――え?
打席に入ろうとしていた由美だが、思わずその手前で足を止めた。勘違いだろうか。亜季が「君」の部分を強調したような気がしたのだ。
「由美、どうした?」
捕手である永山が聞いてくる。由美は慌てて打席に入った。
「ご、ごめん……」
「違ったか?」
「えっ?」
由美は永山を見る。キャッチャーマスクのせいで顔が見えない。彼が何を言っているのか、理解できなかった。
「違ったか?」
もう一度永山は繰り返す。
今度は何故か理解できてしまった。彼が何を言いたいのか。何故「君」を強調したのか。
「違わない……」
「よかった。何年も一緒にいたから、それくらいは分からないとな」
何年も一緒にいたから、だからこそ彼らが何を言いたいのかがよく分かる。
「どうして……」
続く言葉が出ない。しかし永山はそれを理解したうえで返事を返した。
「高校野球が終わって、俺たちの繋がりが消えたら嫌だからさ。俺たちだからこそ生まれた繋がりを大事にすべきだと思ったんだ」マスクを外し、その裏にあった笑顔が見える。「みんながな」
「みんな?」
由美はバックネット裏を見る。スピーカーを持った亜季が、にこやかにこちらを見ていた。やがてスピーカーを口の前に構え、叫ぶ。
「川岡君、頑張れ!」
――亜季。
「亜季、贔屓はするなと言っただろ」
――村中。
「ほら、早くやろうぜ。プレイボール! って言ってみたいんだよ」
――久須美。
「これから、また始めようぜ」
――永山。
思わずため息が出た。絶対にバレていないと思ったのだが、まさか全員が気づいていたとは。必死に気を遣った三年間は何だったのかと言いたくなる。だが、嫌な気分ではなかった。永山の言うとおり、これから始まるのだ。隠しながら生きてきた三年間は、それとは別に保存しておけばいい。上書きではなく、また新しく、名前をつけて保存する。「性壁の崩壊」というタイトルを思い、すぐに首を振る。そもそも壁なんてなかったのだ。一番気にしていたのは由美だったのかもしれない。例の新聞記事も保存すべき思い出かもしれない。全ての感情をこめて「性壁」としてエンターキーを頭の中で押す。
「由美、いいか?」
「ああ」
一度深呼吸をし、家族の中でしか使っていなかった口調で話す。もしかしたら、この試合は全て由美のために組まれたのかもしれないと由美は思った。おこがましいだろうか。心の中で苦笑いした。
「プレイボール!」
バットを構え、村中を見つめた。いつもと同じボール。しかし何故か打てる気しかしない。投じられたボールがよく見える。バットを思いっきり振りぬくと、ウエイトトレーニングで鍛えた腕に軽い衝撃があった。真芯でボールを捉えた証拠だ。打球はライナーで村中の頭を越え、二遊間を破った。
一塁ベースをオーバーランし、村中を見る。彼もこちらを見ていた。
「ナイスバッティング!」
村中が悔しそうに、それでも笑顔で言う。由美も笑顔で言い返した。
「俺の、勝ちだな!」
完