性壁
*
「行ってきます」
「忘れ物はない?」
「大丈夫」
敗退した翌日の朝、玄関で靴を履きながらリビングにいる母親と言葉を交わして由美は家を出た。その左肩には、女の身体には不釣り合いな大きい鞄がある。これを背負うのも残り少ないと思うと、いつもは辛いその重さも今日は嫌でなかった。
「あら由美ちゃん、おはよう」
隣の家に住んでいる女性が話しかけてきた。おそらく五十歳前後と思われる女性は、毎朝早くから家の前を掃除していた。普段から愛想も良かったので、「由美ちゃん」と呼ばれることを覗けば、由美は彼女のことを好いていた。
「おはようございます。早いですね」
「由美ちゃんこそ。……昨日は残念だったわね」
「ええ」
試合の結果はおそらく新聞などで知ったのだろう。カバンに学校名が刺しゅうされているので、以前からよく応援してもらっていた。
テレビや新聞で由美が出てくると、まるで自分の娘が出たかのように喜んでくれる。おそらく今度の「性壁」も見るのだろう。正直嫌だったが、由美にはどうしようもない。
「今日も練習?」
「いえ、三年生だけで紅白戦をするんです」
「あらそうなの。頑張ってきてね」
「はい。ありがとうございます」
軽く会釈をし、由美は再び歩き始める。風を気にして制服のスカートを抑えなければいけないのが非常に億劫だ。野球部ということもあり、学校では常にジャージで過ごしていても問題なかったが、引退した以上そういうわけにもいかないだろう。早くこれに慣れなければいけない。
駅に着いたのは、乗る予定だった電車が到着する二分前だった。ホームには電車を待つ多くの人がいるが、時間が早いからか通勤する大人が少ないため、電車が混むことはなさそうだ。
由美は人ごみの中で、彼女と同じ鞄を持った人物を見つけた。
「おはよう亜季」
「由美、おはよー」
由美と同じ服装で電車を待っていた亜季が、由美の声に反応して振り向いた。毎度毎度、可愛らしい顔に制服がよく似合っている。自分とは大違いだと由美は思う。当然、それは嫌なことではない。
野球部のマネージャーに亜季を誘ったのは由美だった。当人は帰宅部で高校生活を送ろうと思っていたらしいが、由美が何度も説得した結果、しぶしぶといった感じで入ってくれた。今では、充実した高校生活を送れたと由美に感謝の言葉を述べてくれる。
「何、その荷物。いつもより多いみたいだけど。もしかしてユニフォーム?」
何か会話をしたいと、亜季のカバンを見ながら少しボケてみた。
「今日は私がウグイス嬢をするから、そのためのスピーカーだよ」
「ウグイス嬢?」
「うん。その方が雰囲気出るでしょ」
笑いながら、亜季は重たそうに少しだけカバンを上げた。
それとほぼ同時に、ホームへ電車が入ってくるというアナウンスがあった。いいタイミングだと思いながら、由美は亜季から顔を背け、電車が来る方向を見た。彼女の顔を直視できなかった。
「来たみたいだね」
「そうだね。混んでなければいいんだけど」
亜季が心配そうに言う。由美は以前彼女から、電車で痴漢にあったと相談されたことを思い出した。入学してすぐのことだった。最近ではその相談はないものの、本当に悔しそうに悲しそうに話す彼女を見て、まるで自分がされたかのように辛くなったのを覚えている。
もっとも由美には、もし自分が痴漢にあったとしても自分の感情を抑えられる自信がなかった。一体どれだけの屈辱を味わうのだろうか。幸いなことに、由美はまだ痴漢にはあっていなかった。
電車の中は、やはり空いていた。座席に座り、四駅分揺れると降りる。学校まで徒歩五分の位置にある駅のホームは、これまた人が少なかった。
駅から学校へ向かって歩いていると、不意に亜季がアナウンサーのような口調で話し始めた。
「川岡選手、今日の意気込みは?」
「そうですね、全打席ホームランでも打ちますか」
「大きくでましたね。相手投手はキャプテンの村中選手と予想されますが」
「マジ? 村中のボール打ちにくいんだよね」
「今日も抑えてやるよ」
急に後ろから聞こえた声に反応して由美が振り返ると、そこには今話に出てきていた村中がいた。昨日の辛さは吹っ切れたのか、今は爽やかな笑顔を浮かべていた。いつもの村中だ。
「今日は打つよ。亜季がウグイス嬢してくれるらしいからね」
亜季がウグイス嬢をすると聞いて驚くかとも思ったが、村中は特に気にする様子もなく話を続けた。「亜季、贔屓はするなよ」
「約束はできない」
三人で笑いながら歩いていると、すぐに正門が見えた。グラウンドに向かう途中で村中とは別れる。更衣場所が違うからだ。
更衣室に入ると、亜季はいつものようにまずトイレへ入った。その間に由美は自分の着替えを行う。由美が着替え終わったとき、亜季がトイレから出てきた。これもいつものことだった。亜季がトイレへ行っている間に着替え終わろうとした結果、由美の着替えるスピードは三年間でとても早くなった。
「やっぱり、由美にはユニフォームが似合うね」
亜季が言う。それに反応し、由美は自分のユニフォーム姿を眺めた。
「そうかな」
「うん。女子とは思えないほどかっこいい」
「えー、それは困る」
苦笑いしながら言ったが、由美は内心喜んでいた。ユニフォームを着ると、気兼ねなく男子の様に振舞える。男だとバレないように気をつけながらも、彼女の前ではできるだけ男でいたいという矛盾した感情に、由美は三年間苦労していた。
「じゃあ、私は先に行くね」
一声かけると、由美は自分のカバンを持って更衣室から出た。これもいつものことだ。彼女が着替えている姿を見たことは一度もない。
由美は、亜季に対して純粋な好意を抱いていた。マネージャーに誘ったのも、入学式で一目惚れしたからだった。他意はない。高望みもしない、ただ同じ環境にいたかった。彼女と一緒に高校野球をしたかったのだ。
彼女に同性愛の気があるとは思えないし、由美も望んでいなかった。仮に亜季に好かれていたとしても、それは女である川岡由美に対してだ。それならばいっそ。永遠の片思いでいようと決めていた。
大きな壁を作り、小さな穴をあける。こちらから一方的に相手を見て、想う。亜季には絶対気づかれてはならない。由美はそんな状況で、今までの高校生活を過ごしてきた。
グラウンドでは、早めに来ていた選手がライン引きなどを終えていた。今からでも試合ができそうな状態だ。由美は軽くウォーミングアップを済ませ、自チームのメンバーが揃うのを待った。
やがて全員がウォーミングアップを済ませ、ベンチの前で集まる。打順や守備位置の確認が行われた。由美は一番打者で二塁手だった。できるだけ多くの打席が回ってくるようにとの配慮だろう。由美たちのチームが先攻になったのも、それが原因かもしれない。先攻なら、点差に関わらず九回の攻撃を行える。
「ベンチ前整列!」
昨日完投した疲れを考慮してスタメンを外れている久須美が声を発する。彼は由美たちの主将であるが、前半戦の主審を担当していた。
互いのチームがベンチ前に並び、審判の声とともにホームベースを挟んで向かい合う。礼をして互いのベンチへ戻ると、一気に試合のムードとなった。