性壁
三人の本音
頬から顎にかけて伝い落ちていく汗を右手の甲で拭い、俺は一八.四四メートル先にいる男を見つめた。今は九回表。延長戦にでも突入しない限り、この試合で俺が投手として対戦するのは、これが最後になるだろう。夏の甲子園決勝戦である試合で最後の対戦ということは、高校生活において、最後の真剣勝負ということにもなる。
一点ビハインドで二死無走者。九回裏の攻撃で逆転するためには、ここで失点するわけにはいかない。この試合唯一の失点を許すこととなったタイムリーヒットを打たれた男との、この試合四度目となる勝負が、自分にとって高校生活ラストの投球となるならそれも構わない。俺は一度深呼吸をすると、捕手からのサインを確認して、振りかぶった。
俺と歩夢は、いわゆる幼なじみだった。小・中と同じ学校に通い、いつも一緒に行動していた。ゲイなのかと周りに茶化されることもあるくらいだったが、恋愛に関しては、互いに同じ女をずっと好きであり続けている。そんな俺たちも、高校は別々に通うこととなった。しかしそれは特に不思議なことでもない。何故なら、俺たちは今まで一度も同じチームで野球をしたことがなかったからだ。少年野球も、中学時代に所属したシニアリーグも、俺たちは違うチームで野球をしていた。理由はただ一つで、互いが共に「エース」になりたかったからだ。
俺は西東京の強豪校から、歩夢は東東京の強豪校から、それぞれに推薦が来ているのも好都合だった。東西の東京どうしなら、秋は地方大会ですぐに試合ができ、夏は甲子園まで試合ができないという、ドラマチックな演出にピッタリなシチュエーションができる。
中学卒業後、俺たちは互いに二つの約束をした。「甲子園の決勝で投げ合おう」という約束は果たした。しかし、もう一つの約束は「勝った方が百合に告白する」というものだった。俺と歩夢の幼なじみで、俺と歩夢が好きな百合。俺たちといつも一緒にいるというわけではなかったが、野球が好きな彼女と俺たちの仲は、年を経るごとに深まっていった。彼女がどちらかの告白に応じるかは分からない。しかし、先に好意を伝えるというのは、それだけで何か特別なことのように感じられた。その約束を、これまで二人は守ってきた。この試合に勝てなかったら、もしかすると二度と彼女に思いを伝えられないかもしれない。その意味でも、この試合は負けるわけにいかなかった。
後ろに引いた左足を上げ、身体の正面を三塁側に向ける。ここまでの全試合で完投してきた身体は、もう限界に近付いていた。しかしその右足は、まだ体重を支えてくれている。腕を下ろす。かなり小さいテイクバックとマスコミにも特集されていたフォームで、俺は初球を投じた。外角低めのストレートに、歩夢のバットは空を切った。
一度打席を外した歩夢は笑顔を浮かべた。彼も、これが最後の打席になるかもしれないと分かっているのだ。楽しもうという気はあるのだろう。
歩夢は俺と違って昔からよく笑う男だった。「爽」という漢字がこれほどまでに似合う人物を、俺は知らない。甲子園に出場したのはこれが三度目となった歩夢。初出場した二年夏のときから全国にファンが存在し始めたようだが、三期連続の出場となったこの夏で、そのファンは一気に増えたと思われる。マスコミにも「ハレヤカ王子」というニックネームをつけられ、歩夢フィーバーなるものも起きているとまでいえた。
対する俺は、十人並ではないと思うけれども、それでもやはり歩夢に比べると容姿は落ちる。昔から、バレンタインはいつも歩夢が少し多くチョコを貰っており、少し劣等感を持つこともあった。
二球目も外に投げた。しかし今度はスライダーだ。俺が持つ変化球の中でも一番の自信を持っているボールで、このスライダーがあったから、俺はここまでこれたといっても過言ではなかった。ストレートは時速一四〇キロメートル前後で、決して遅くはないにしても、甲子園決勝で、時速一五〇キロメートルを超える速さを誇るストレートを武器とする歩夢と比べると、やはりそれは貧弱に感じられた。そして磨きあげ続けたスライダーに、歩夢のバットは再び空を切った。
あと一球。無理に三球勝負をするつもりは毛頭ない。決め球はスライダーか、それともカーブにするか。少なくともストレートという選択肢はなかった。打撃センスもなかなか高いレベルを持つ歩夢には、そう何度も俺のストレートが通用しない。それは俺が一番よく分かっている。まずは高めに一球釣り球を挟んで、次に低めで勝負だ。捕手からのサインも、高めのストレートを要求していた。俺は頷く。外に寄ると、バットが出やすいコースになるかもしれない。できれば内角高めに決め、歩夢の状態を起こしたい。ゆっくりと振りかぶり、いつもの投球フォームからボールを投じる。小さいテイクバックは、コントロールを良くするために工夫したものだ。中学時代、速球を売りにしていた歩夢に追いつこうと頑張って球速を上げていた俺に、百合が一言アドバイスをくれた。俺には俺にしかできない投球をすればいい。彼女からアドバイスをもらってから、俺はそう考えることができるようになった。狙ったところに絶対投げる。球速にこだわることをやめた分、それだけは譲れなかった。歩夢との投球成績で比べたのは、与四死球と奪三振だけだった。前者はたいてい俺が勝ち、後者はたいてい互角。違う投球スタイルで、歩夢と同等の投球ができる。そして今日勝てば、同等ではなく自分が上だと示すことになる。まだ諦めない。今日も、ここまで与えた四死球は〇だった。
指を離れたボールが、まっすぐにホームベースへ向かっていく。しかし、投げた瞬間にわずかな違和感があった。今までにも何度か経験したことがあるそれは、「失投」の感覚だった。歩夢に向かっていくボールは、もう自分では制御できない。歩夢の目が一瞬見開かれ、顔を後ろにそむける。そのヘルメットに、ボールが直撃した。
衝撃を受けた歩夢の身体が崩れる。やってしまったという思いが俺の心を支配した。思わず電光掲示板に目をやると、「145」という数字が見えた。自己最速だ。
地面に倒れたままの歩夢はなかなか起き上がらない。俺はゆっくりとマウンドから歩き出した。
「歩夢!」
そして、慌てて親友の元へと駆け寄った。
うずくまっていた歩夢が、両手を地面に着いて立ちあがろうとする。俺は慌ててそれを制した。そのとき初めて歩夢は俺が来ていることに気付いたようで、驚いた様子を見せながらも笑顔を浮かべた。
「心配するなよ。意識もしっかりしてるし、避けられなかった俺が悪いんだ。速すぎて避けられなかったよ。ナイスボールだ」
「歩夢……」
頭にボールが当たっても、歩夢はいつもと変わらぬ様子を見せていた。歩夢の様子に安心した俺は、捕手からボールを受け取るとマウンドへと戻った。歩夢には悪いが、いつまでも気にしている余裕はない。後ろで相手の監督が歩夢の様子を確認し、臨時代走を告げたのが分かった。頭部に死球を受けるなどして、怪我により走塁が困難と認められた打者には、臨時代走を送ることができる。臨時代走を送られてベンチに下がっても、プレーできる状態に戻っていれば守備から普通に復帰することが可能だ。