性壁
*
何を言おう。言うことが無いわけでは決してない。むしろ、言いたいことがありすぎて何を言えばいいか迷っているのだ。とりあえず今までのことを思い出す。楽しく、苦しく、しんどく、そして充実した高校野球生活だった。もう彼らと共に野球をできないということにようやく実感がわく。
そのとき、またしても頬を一筋の雫が伝った。そしてそれは瞬く間に勢いを増し、止められなくなってしまった。
――何で泣いてるんだよ・・・・・・。泣き止めよ・・・・・・
自分ではどうしようもない。なすがままに、由美は声をあげて泣き始めた。
「惜しかったわね」
「まあ、優勝候補相手によくやった方だろう」
車で自宅に向かっている途中、車内で両親が話し始めた。足を大きく広げながら後部座席に座っていた由美は、目を閉じて眠ろうとしていたのだが、その声を聞いて意識を会話に集中させた。目を閉じたまま――狸寝入りをしたままでだ。
「ユーも三年間よく頑張ったよね・・・・・・」
「・・・・・・寝ているみたいだな」
「今日は暑かったから。応援とはいえ、軽い熱中症になっているのでしょう」
「女の身体だってのに、ホントによく頑張ったよな」
両親は照れくさいほどに自分を褒めてくる。中学三年生のときに自分が性同一性障害であることをカミングアウトしてから、両親にはかなりの苦労をかけた。もしかしたら自分よりも彼らは苦労したのではないかと由美は思っている。
薄目を開け、今の自分の格好を見てみる。だらしなく足を開いたユニフォーム姿は、胸が出ていることを除けば男と大して変わらないようにも見える。このような格好をできるのは両親の前でだけだ。両親にストレスをかけさせる代わりに、由美は無意識に溜まっているストレスを発散する。女のような名前である由美と名付けられたこと以外は全てにおいて感謝していた。その名前においても、男とも女ともとれる「ユー」と呼んでくれているのは本当にありがたい。
「現役中は何も聞かなかったけど、これからどうするのかしら」
「大学か、就職か。でもユーの成績はそこまで良くないからな・・・・・・。就職するのかな」
「ユーはどうしたいんだろう」
「どうって?」
「・・・・・・男として過ごすのか、女として過ごすのか、ということよ」
思わず咳き込みそうになるのを、由美は必死に堪えた。父が自分の成績について言ったときも思わず起きて怒りそうになったが、今起きるわけにはいかない。ここで空気を読めないほど親不孝な「息子」であるつもりはない。
――男として生きる・・・・・・か。
考えたことがないわけではなかった。世の中には、自分が性同一性障害であることを公表している人もいる。社会的にも、その存在はある程度認知され始めている。だが、それが正しく認知されているかは疑問だった。偏見を持っている者が多いのではないかと思う。
ただ心の性と身体の性が違うというだけなのだが、それを「自分と違う」と認識し、軽蔑する者もいる。それは仕方ないことだとも思うが、やはり少し悔しく、そして寂しかった。男として生きるなら、ただ男として見てもらいたい。女の身体というフィルターを通して自分を見て欲しくない。それがなされないのであれば、多少つらくても隠して生きていこうと思っていた。野球部のように、それを隠しながらも楽しい空間はこれからもおそらくあるだろう。
由美の携帯電話が震えたのはそのときだった。どうやら誰かからメールがきたらしい。起きるタイミングを窺っていた由美は、これ幸いとばかりに狸寝入りを止めた。
「亜季か」
ディスプレイに表示された名前を見て、両親に聞こえるくらいの声で由美は呟いた。両親が一瞬こちらを気にする素振りを見せ、車内が沈黙で満たされる。その中で由美はメール画面を開き、内容を確認した。
それは、明日グラウンドで紅白戦を行おうというものだった。明後日に行う旧チームと新チームというものではなく、三年生だけで行われるらしい。三年生だけでも二十人ほどいる。人数的には問題ない。
由美にとっては願ってもみない誘いだった。また皆とプレーできるばかりか、試合に出られるかもしれないのだ。明後日の紅白戦で初回から最終回までフル出場するのは無理だろう。
「亜季ちゃんから?」
由美がメールを読み終わったとほぼ同時に、母親が顔を後ろに向けて尋ねてきた。
「うん。明日、三年生だけで紅白戦をしようってさ」
「あら、良かったじゃない。行くんでしょう?」
「当たり前だろ。皆に俺の勇姿を見せてやるよ」
返信するための操作を行いながら由美は答える。
「俺たちも行こうか。なあ?」
「そうね。見に行きたいわね」
「仕事はどうするんだよ」
笑いながら、今度は由美が尋ねる。明日はまだ金曜日だ。今日も仕事を休んで試合を見に来てくれている。二日連続で休むのは難しいのではないかと思う。もっとも、彼らが仕事よりも「息子」の試合を優先することは不思議ではなかった。由美も彼らに見せてあげたいとすら思っていた。
キーをタッチし、返信するために文章を作る。とはいっても、内容は短い。「もちろん行くー」と入力し、少し考えた後にキラキラ光っている絵文字を付け足した。我ながら女子っぽいメールだと思った。
送信ボタンを押して自分の姿を見ると、メールを打ちながら足がだんだんと閉じていたことに気がついた。由美は大きなため息をつくと、足を思いっきり開いた。