like a LOVE song
面食らったようにしつつも彼はきちんと答えた。言葉を使えなくなってはどうしようもない。登校拒否の兄の例があった三月は、黙り込ませてしまわない話術というものを身につけていた。
「じゃあ、私の家のほうが近いね。来る」
首肯が見えたので、彼女は少しだけ歩を進めた。
映画館を左に折れるといきなりそこは田舎道になる。そのまままっすぐ五分ほど歩けば彼女の家だ。こんなに近いのにあまり来ないのはどうしてだろう。近いからなのかもしれない、と彼女はぼんやりと考えた。
そういえば、男性の客を招くのは初めてかもしれない。想い人など当然ない。そもそも、彼女にとってこれは初恋であった。それを意識すると緊張もないではなかったが、それよりもこの重い空気がいつまで経っても払拭されそうにないことの方に彼女は不安を覚えていた。それを反映する気も無く、雲ひとつない青空を展開する春の空に、彼女は唾を吐きそうになった。天に唾す、馬鹿な話だが。
どちらも喋らない道程は五分とはとても言い切れないほど永遠めいたものだった。それでも映画館を出た時刻からはまだその程度しか経っていないことを携帯電話の時計は告げていた。
「ここです、お疲れ様」
彼女がそういうと、彼は曖昧な返事をした。
両親がいたので鍵はかかっていない。無用心と言えばそうかもしれないが、この田舎で盗みを働こうなどという輩はいまい。昔ほどではないにしろ、やはり都会に比べると他人との関わり方が違う。見慣れない人が出入りしているのを見咎められたりすれば、もう指名手配も同然である。インターネットというのは電子化されているとはいえ、元は人間の結びつきに他ならない。一人が知ればみんなが知る。田舎とはそういうものだ。それでも全盛期ほどではないというのだから驚きである。なんだかんだいっても、盗まれるようなものがないというのが最大の要因だったが。
「ただいま、どうぞ」
「お邪魔します」
玄関に立つといきなり階段と廊下の二択を迫られる。家族に紹介するのは面倒なので後回しにするとして、彼女は愛を自室に上げることにした。
「二階ね。迷わないでついてきてよ」
軽口を叩きながら彼女が靴を脱いで框を踏むのに少し遅れて彼も倣った。少し茶がかった靴下が、土がむき出しの道路を歩いてきたことを知らせていた。直接触れることもないのに、どうしてこうも靴の中に砂は入り込むのだろう。
跳ねるような音と、落ちるような音、二種類の足音が階段を上がっていった。
二階に足を踏み入れると、目の前にあるのが彼女の部屋だ。彼女は自室のドアを開いて、彼を中に招いた。言うほど散らかしてはいないつもりだ。
「なんか、殺風景だな」
床板の上に敷かれた地味な淡色かつ単色の絨毯の上に四足の机が置いてあるだけで、他に目に付くものといえば本棚くらいだ。彼の部屋と同じくらい、いや、それより更に殺風景かもしれない。
しかし、その本棚には彼女なりのこだわりがあった。天井につっかえ棒を張って固定してあるこの書架は、ずらり天井までびっしりと本が詰め込まれている。種類はハードカバーから文庫まで幅広く、また奥行きがあるために文庫本の棚は奥側にあまり読まなかったり見栄えの悪い本を押し込んで、見栄えのいい本、よく読む本を前列に持ってくるという二列構造になっていた。一基だけでも充分なそれが、三基も横に並べて置いてあるのだから、圧巻と言うほか無いだろう。
けれど、目立つわけではない。漫画の背表紙ならまだしも、本の背表紙はさほど目立つものではないのだ。やはり女子の部屋にしては殺風景かもしれない、と彼女は己の部屋に対して思った。ただ、改善するつもりは彼女にはなく、彼女にない以上誰にもあるはずがなかった。
「悪かったな」
一応気を遣っているのに、とは言わなかったが彼女は心中そう付け加えた。彼の表情は相変わらず硬く、ひきつった笑顔が気味悪く佇んでいるのみだった。冗談でも言ったつもりだったのかもしれない。
そんな様子を見て、彼女は一つ嘆息した。こんな空気を何十分、何時間も引き伸ばされたら、ただでさえ気にしている体重があと五キロは増えかねない。
「で、何か言いたいことあるんでしょ」
何の飾り気もなくそう切り出すと、彼はまた沈痛そうな表情を作った。彼女は、ああ、振られるのか、と思った。考えなかったわけでは当然なかった。映画館からの道のりの途中にさえ、それをどれだけ頭の中で否定したかわからない。
けれど、もうその必要はないだろう。彼は恐らく、ここではっきりと彼女を振るだろうから。
そんな彼女の推測とは裏腹に、彼は一向に口を開く様子を見せなかった。更に倍ほど強くなった重力に耐えかねて、
「もしかして、返事のこと」
と問うに、少し遅れて首肯があった。
「俺、三月のこと、好きだよ」
それを口に出した瞬間、彼は泣き出しそうな顔をした。けれど、視線だけはきっちりと彼女と交わされていた。
彼女は信じられなかった。てっきり振られると思っていたのに、彼はノーの返事とは思えない返答をした。友達として、という継ぎの句もない。
「えっと、じゃあ」
「ああ、これから、よろしく」
彼はまた、いつも通りとは言い難いぎこちない笑みを浮かべた。彼女にはその表情の意味が度し切れなかったが、彼の言葉を疑おうとは思えなかった。彼はこういう大事なところで嘘を吐くような人間でないことは、中学校からの付き合いである彼女にもよくわかっていた。
ならどうしてそんな顔をしているのか、と問おうかと考えた、その瞬間に、彼は彼女の唇を奪った。かさついた彼の唇が少し痛かった。羞恥から目は勝手に閉じられた。
何秒か後、二人は唇を離した。合わせるだけのキスとはいえ、初めての彼女には充分の刺激のあるもので、顔と顔を離したあともその余韻に酩酊するような感覚があった。
見ると、彼も微妙な顔をしながら、いつもの彼のそれに近い笑みを浮かべていた。彼女も、いつも通りの笑みを返した。それだけで、彼女はもう先ほどの表情について訊ねる必要を見失った。
そしてどちらからともなく、二人は再度顔を近づけて、
元来部活動にはあまり力を入れていない彼らの高校は、春休みになると完全に死んだようになる。教師と、補習や委員会活動で訪れる生徒がちらほらいるものの、いつもの騒々しさも混雑振りもどこかになりを潜めてしまい、その所為でがらんどうとなる教室は廃墟めいた寂寥感を伴って鎮座していた。
三月は図書委員の仕事のために、水曜と木曜に登校が義務付けられてしまった。とは言ってもいつもよりは客足は少なく、貸し出しと返却の忙しなさも常よりはましと言えた。
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀