like a LOVE song
眠りの中でも、眠りの中でこそ、スナイパーはさらに強い実態を以て彼を見つめていた。泥のように眠ってしまうからこそ、彼は泥沼のようになる意識の海を溺れるようにしながら銃口から逃れることになる。
あのビルか、あのコンビ二か、あのアパートか、あの草むらか。どこに潜んでいるともしれない彼の中の彼を逆に探しあてようと意識の網を張り巡らす。もしどこかわかれば、すぐにその爛れた思想を撃ち殺すつもりがあった。
彼の手にも拳銃。狙撃はしない。見つけた相手の顔を拝める位置から射殺しないと意味がなかった。その死体を自ら火葬しきるまで、安心の椅子に座ってはいけなかった。
眠りは戦いだ。無意識が跋扈するそのときにこそ、意識はそれを捕獲するために東奔西走する。
だが、往々にして望まない目覚めは突然に訪れる。追い詰める寸前、手がかりを掴んだ瞬間、影を捉えた刹那、そんなとき、不意にまぶたが開いてしまう。
愛はそれをわかっていながら、その反逆者の存在を夢中に探し続けた。二時間ほどのちに彼は目覚めることになったが、まったく眠ったような気がしなかった。
渡り廊下の少し前に愛を見つけて、倖雄はその名を呼んだ。彼は振り返って、手を挙げてよう、と言う、はずだった。それがいつもの彼の反応だ。
彼は振り返った途端、倖雄に背を向けて走り出した。廊下だということも気にせずに全速力で消える愛に、倖雄は呆気に取られる以外の反応を持たなかった。その行動の意図が、彼にはまったく掴めなかった。
避けられるようなことを何かしただろうか。三月に告白されたことの相談の時に、何か言ってはいけないことを言ったのか。それ以降から今まで、彼との間に会話もメールも持たなかったはずだが、と倖雄は思考を巡らせた。
一瞬振り返って、逃げ出すまでの間の彼の目は、まるで恐怖に戦くようでさえあった。もし他の誰かから倖雄の悪い噂を伝聞したのだとしても、そうはならないだろう。
倖雄は首を傾げて、ただ話したくなかっただけかもしれない、とその時はあまり深く気に留めなかった。
だが、そんなようなことが二度三度と続くうちに、倖雄はその行動の意味を真剣に考えざるを得なくなった。けれど、その思考の迷路はすぐに隘路に出てしまう。右側の壁に手をつけて歩けば抜けられない迷路はないというが、思考の迷路はそうはいかない。
その隘路は常に同じ場所だった。彼には身に覚えがない、という壁だ。彼にはいくら記憶を漁っても、そうされるに足るような残酷な行いをした覚えがなかった。罪の意識なしでやっていることがなにかあるのかもしれないが、そうだとすれば倖雄には発見できまい。
「ねえ、日下部さん。愛くんと何かあった」
悩んだ末、彼は三月に相談してみることにした。三月もこのところ浮かない表情をしていることが多かったが、それは愛への恋ゆえだろうことを知っている彼にはむしろ自然なことに思えた。
「え、どうして」
三月は隠していたことがばれた子どものようにあからさまに動揺して答えた。倖雄はあまり気にしなかった。それも告白したことを知られていないと思っているなら当然の反応だろう。
「このところ、どうも避けられてるみたいなんだよ。日下部さんはそんなことない」
刹那安堵の色を浮かべてから、あごに人差し指を当てて思案するようにして、彼女は首を振った。心当たりはない。
「喧嘩とかしたってわけでもないの」
「身に覚えはないつもりなんだけど。強いて言えば日下部さんのこと相談されてからだから、もしかしたら何かあったのかと思って」
あ、なんだばれてるのか、と彼女はため息を吐き、まあ遠野くんならいいか、と付け足した。それはどういう意味だろう、と彼は少し気になった。彼も色恋沙汰には縁がなかったが、男性として見られていないということだとすれば少し気に障る。口にしようか逡巡したが、今問いたいのはその責任ではなく情報だ。
「何もないよ。あれから連絡が来る様子も。けど、特別避けられてるってこともないと思う。たまに出くわしたら挨拶くらいはするし。それもないんでしょ」
倖雄はゆっくり頷いた。
「そうなんだよ。それに愛が誰かにそんな態度をとるのも初めて見るんだ。よほどなことが何かあったのかと思ったんだけど、そうか、日下部さんのことでもないのか」
三月は唸るような声を出して、
「ごめん、力になれなくて。けど怒ってるんじゃないんじゃないかな。なんとなくだけど」
と詫びた。倖雄は力なく笑った。彼女の目にも、少し参っているらしいのが見て取れた。
「だといいんだけど」
「あまり気にかけないほうがいいんじゃない。遠野くんも大分参ってるみたいだし」
「うん、ありがとう。もし相談されたりしたら答えてあげてね」
わかった、という三月の答えを聞いて、倖雄は幽鬼めいた歩調で自分の教室に帰った。三月は心配そうにその後を見つめていたが、もうすぐ予鈴のなる時間になり、彼女も次の授業に集中しなければならなくなって、そのことを心中倖雄に詫びてから隅に追いやった。
そこでは激しい人間模様が繰り広げられていて、どんな意味でもリアリティがなかった。実際の人間関係にはもっと湿度があり、もっと地味さがあり、もっとうっとうしさがある。
映画館などに来たのは何年ぶりだろう。実写映画と言うと見に来るのは初めてかもしれなかった。隣に座っているのが男友達なのも初めてだ。というよりも、女友達とさえ来たことはないかもしれなかった。彼女も付き合いこそしても浅く広いネットワークしか築かなかった。深く他人の世界に没入するのは昨今の風潮に合わない。
横に座っているのは水下愛、その人だった。
倖雄を避けているのかを問おうか迷った。けれど、そんな逡巡をする前にバスに乗せられ、そのまま映画館に連れ込まれた。上映が始まってしまっては喋ることは出来ない。彼女は黙ってスクリーンに映し出される脅威の映像に思いを馳せるしかなかった。
食指をあえてのばすほどの興味は無かったものの、見始めてしまうとその作品はきちんと彼女をその世界に引き込んでくれた。横に想い人のいる緊張を時々思い出しながらも、彼女はその作品の海を泳ぐことをそれなりに楽しめた。
衝撃的といえるラストシーンのあと、耳に残らない当たり障りのない曲とともにエンドロールが流れ、幾つもの知らない名前の羅列を見終える頃、暗くなっていた劇場内に灯りが戻った。これでフィルムはすべてなくなったのだ。
彼らは無言のまま劇場を出、外の道へと出た。
「あんまり映画とか見ないんだけど、いい出来だったよね」
興奮気味に問うてみると、彼女とは違ったカタルシスがあったのか、上の空としか言えないような返事が返ってきた。聞いているのか聞いていないのかもよくわからないような答えだ。表情も硬く、生気というものが決定的に欠如していた。
彼女はため息を吐いた。どうしたのか、と窺うような視線が向けられたのをいいことにその視線を掴むと、彼女は問うた。
「ねえ、ここからだと愛の家までどれくらいなの」
「半時間くらいか、歩くと結構あるな」
作品名:like a LOVE song 作家名:能美三紀